17.自分を失っているから他人のことも気付かない
古代インドの一都市に富豪の息子である若者が住んでいました。
彼は同じ種族の若者五百人を集めてそれぞれ七宝をちりばめた傘を手にブッダの滞在する場所へやってきました。
彼らは到着するとさっそくブッダのそばにひざまずき礼拝をなして、手にしていた傘をささげました。
この五百本の傘はブッダの手の中で一本の傘となり全世界をことごとく覆い尽くしてしまいます。そして、傘の下ではこの世のあらゆる存在が余すところ無く平等に現し出されたのでした。
これは経典のひとつである維摩経に書かれた話です。 仏典に説かれる話はその多くがたとえ話の形で表現されていますので現実離れした内容のものが多くなっています。
本来、ブッダ、つまりお釈迦さまは、まじないとか神通力などの類いは否定されそれを主体として布教することはきつく止められています。
しかし、真理とか自然の摂理などへの畏敬の念とそれを認識する大切さを示すために方便としてこういった表現を使ったものです。
この五百本の傘は持ってきた者それぞれの個性、人間性が現れているはずですが、ブッダの手の中に入ればすべて平等、等価のものになってしまいました。
いま、世界では一本の傘がそれぞれに強く自己主張しています。国家、民族、宗教そして一個人までがわれ中心に動こうとしています。その結果が戦争やテロであり紛争であり感情的確執でありそして犯罪なのです。
自己の存在と信念を保つのはとても大切なことですがそれは他人が認めてくれてこそ生きてくることです。ということは自分もまた他人のそれを認めなければならないということになります。
世界の人間のこころが一本の傘にまとまる日はまだまだ遠いのでしょうか。