西 暦 |
で き ご と |
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900年頃 |
アラビアの名医ラーゼスは珈琲に関する世界初の文献として知られその中でラーゼスは「珈琲は胃に効く薬」と書いているそうです。
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1000年頃 |
アラビアの古い文献によれば、名前も珈琲ではなく”バン”と呼ばれその生豆を乾燥させ煎じたものを胃の薬として飲用していたようです。彼らは酒を禁じられた時代ですから興奮作用をもつ飲み物としては格別だったのかもしれません。 |
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1200年頃 |
煎り豆を煎じて飲むようになったのはこの頃からです。この黒色飲料は回教の本山メッカを中心に信者よって広められ、アラビア→エジプト→シリア→イラン→トルコへと伝わっていったのです。また、この頃は団子にして食べたこともあったようです。 |
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1258年頃 |
「オマールの小鳥の伝説」アラビア人オマールが、イエメンの山中で鳥がついばんでいるコーヒー豆を発見しました。
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1440年頃 |
エチオピアのカルディという羊飼いが放牧している羊が興奮していることからその赤い実をを食べたところ甘酸っぱくて気分爽快になったらしいのです。その話しを通りかかった回教徒がみんなに広めたということです。後に眠気ざましの薬として扱われるようになりました。
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1454年 |
イスラム聖職者ゲマルディンにより、コーヒーが民衆に知られるようになりました。 |
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1510年頃 |
珈琲はアラビアからカイロへ伝わった |
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1511年頃 |
カイロに喫茶店誕生 |
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1530年頃 |
ダマスカスで喫茶店がうまれ。珈琲はさらにダマスカスからコンスタンチノープル に伝わりました。 |
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1554年頃 |
@トルコのコンスタンチノーブル(現・イスタンブール)にカービー・カーネーという喫茶店が世界第1号として開店したのです。 |
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Aトルコのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)世界最初のコーヒーハウス「カーネス」が開店しました。イブッリクと呼ばれる長い柄のついたひしゃく型の器具で煮出すトルココーヒーの入れ方はその後ヨーロッパにおいても長い間用いられていました。 |
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1573年 |
ドイツ人医師により、コーヒーに関する記述がされ、しだいにヨーロッパの人たちの間に知られるようになりました。 |
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1600年頃 |
モカマタリの栽培が始まった16世紀ごろから一級品としての名声がある。 |
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アラビアを旅立った珈琲が先ず行きついたのはインドでした。ババ・ブダンという回教徒がアラビアから持ち出しインドのマイソール海岸あたりに移植し栽培をはじめました。 |
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オランダの大使として中国に滞在していたニューホフという人は、ある日ミルクティーの代わりに初めてミルク入りの珈琲を飲みました。これが珈琲にミルクを入れる試みの最初だそうです。 |
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1605年頃 |
オランダとイギリスが東インド会社を設立し、日本には朱印船制度があって貿易は盛んでした。煙草も伝来して九州平戸に貿易が盛んになりこの頃に珈琲が伝わったとされています。
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1607年頃 |
アメリカにはじめてコーヒーがもちこまれたのは、1607年のこととされています。トルコでコーヒーの味をおぼえたジョン・スミスという船長が、約100人の植民団と一緒にコーヒー豆を運んだらしいのです。 |
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1615年頃 |
イタリアの旅行家ジャンテブノがトルコからベネチアに珈琲を伝えました。その後ローマへ・・ |
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1640年 |
オランダ人の商人がイエメンのモカ港からヨーロッパで初めて珈琲を輸入しました。 |
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1644年頃 |
珈琲はローマからマルセイユに渡りヨーロッパ全土へ・・・ |
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1645年頃 |
イタリアのヴェネチュアに珈琲店が誕生した。 |
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1652年頃 |
イギリスで、大学生の街「オックスフォード」に最初のコーヒー・ハウスができた。開店させたのはユダヤ人ヤコブでした。あとに言われた「ヤコブ店」と称されるやつです。 |
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1652年の昔、ロンドンの中心部コーンヒル広場の端にあったセント・ミカエル寺院前に、パスクワ・ロッセという人が初めてコーヒーハウスを開きました。そこでコーヒーの効能などを書き記したコーヒー広告を配り、お店は大いに繁盛したそうです。そこから始まったコーヒーブームはあっと言う間に広まり、ロンドンにはわずかな期間に2000軒といわれるコーヒーハウスが出来ました。そして見る間にヨーロッパ各国に広がったそうです。←1669年と前後するが・・・ |
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1664年頃 |
オランダのハーグに喫茶店 |
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1668年頃 |
北アメリカにコーヒーが伝えられました。 |
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1669年頃 |
フランスでコーヒーが最初に飲まれた |
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1671年頃 |
マルセイユに喫茶店 |
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1672年頃 |
フランスのパリに喫茶店 |
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1679年頃 |
ドイツのハンブルグに喫茶店 |
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1683年頃 |
ウィーン最初のカフェ
1683年、神聖ローマ帝国の首都であったウィーンはトルコの大軍に包囲され、陥落寸前の危機にありました。その中にゲオルグ・フランツ・コルシツキーというポーランドの兵士がいました。彼はトルコに長く生活していのでトルコの言葉や生活に精通していました。トルコの服装に身を包み、敵の包囲網を突破し友軍との連絡に成功したのです。これによってついにトルコ軍を撃退することができたのです。ウィーンの市会はこの功績を讃え『帝室の伝令』という称号を授け一軒の家を与えました。コルシツキーはトルコ軍の残していった物の中からコーヒー豆を貰い受け、ここでウィーン最初のカフェを開いたそうです。 なお、彼がトルコの服を着、コーヒーを注いでいる銅像は今でもウィーンのコルシツキー通りの一角に建っています。 |
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1685年頃 |
フランスの名医シュール・モナンはカフェ・オ・レを医療に用いました。フランスの家庭にはこれ以来カフェ・オ・レが普及したといいます。 |
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1689年頃 |
大淀三千風が紀行文中に珈琲を紹介しています。その後の貿易は長崎の出島に移され珈琲は直接交流のあった通詞(通訳)や丸山の遊女などによって日本にも広まったと思われます。 |
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1700年頃 |
アメリカ西部開拓時代(野営の珈琲 ・ ブリキで飲んだ珈琲) |
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オランダがティピカ種をインドネシア・ジャワ島に移植し栽培に成功 |
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1706年頃 |
植民地であったジャワ島から本国オランダのアムステルダムに見本の珈琲の苗が送られアムステルダムの植物園に植えられ、成長した苗をフランスのルイ6世?に献上しました。そしてその苗は王立植物園に植えられ立派に成長しやがてその苗は中央アメリカへと旅立っていったのです。 |
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1714年 |
アムステルダム市長はフランス国王ルイ14世?に寄贈した。 |
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1719年 |
オランダの植民地スリナムに、フランスの植民地カイエンヌから逃亡してきた一人のフランス人がいました。彼はカイエンヌの総督に対して「もしも私の罪を許してカイエンヌに住むようにしていただけるなら、持ち出しを禁止されている珈琲の種を万難をはいして持ち出しましょう」と伝えました。フランスの総督はすぐに話しに飛びつき1722年ムールジュは珈琲の種を持ち出しに成功、国にも帰ることが出来たのでした。 |
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1723年 |
マルティニ−ク島からパリに来ていた海軍士官ガブリエル・マチュ-・デ・クリューはフランスから自分の島に珈琲の木を持ち帰ろうとした。しかし、珈琲をのせた船は再三の障害に合いながら持ち出しに成功した。 |
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1727年頃 |
南米のギアナ(フランス領)からブラジル(ポルトガル領)に珈琲の実のついた枝が持ち込まれました。 |
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物語:ブラジルは紛争解決の為、陸軍士官フランシスコ・デ・メーロ・パーリュタをギアナに派遣した、この時、珈琲の木を持ち帰る事も指示されていた。好意をもった総督の妻はパーリュタに感謝の花束を送った。その花束の中に珈琲の苗木が忍ばせてありました。ブラジルコーヒーの歴史はこの花束から始まったのです。 |
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1728年頃 |
ジャマイカに初めてコーヒーが入ってきたのは1728年で、当時のジャマイカ総督ニコラスローズ卿が西インド諸島のフランス領マーチニクから持ち込みました。 |
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1732年 |
バッハが「コーヒー・カンタータ」を発表し、カフェでバッハ自ら演奏を指揮した。 |
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1734年頃 |
バッハのコーヒーカンタータの作詞したピカンダーは1734年頃ライプティヒでコーヒーが大流行したころの詩人、コーヒー店の一つツインマーマンコーヒー店ではバッハ自身がオーケストラの指揮をしコーヒーカンタータはこの店で演奏されたとされ、「コーヒーってなんて美味しいんでしょう。千回のキスより素敵。ワインより軽やか、コーヒー、コーヒーがなくては・・・」と、コーヒーにうつつを抜かす娘に気に入らず、あの手この手で止めさせようとする父親とのやりとりを歌うユーモラスとも言える歌です。
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1760年頃 |
ローマのカフェ「アンティコ・カフェ・グレコ」が開店した。この喫茶店は歴史的な喫茶店でドイツの文豪ゲーテやほかにアンデルセンやロッシーニやリスト更には作曲家ワーグナーなどローマにやってきた芸術家達はこの店を訪れています。このカフェグレコは昔の面影をのこしたまま今でもスペイン広場近くに店を開いているそうです。
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1763年頃 |
1763年フランス。ブリキ職人ドン・マルタンは中に布袋を付け、注ぎ口を持ったコーヒーポットを考案。これをきっかけに、今までのコーヒー豆をそのまま煮出すトルコ式の抽出方法からドリップ式へと移っていきました。トルコ珈琲のようにカスが入る珈琲からついにカスの残らない抽出法が考案された頃です。いわゆるドリップ方式です。トルコ珈琲はそれなりに味わいのある飲用方ですが、このドリップ方式は全世界に広がって行きました。
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1770年 |
ベートーベンは大のコーヒー党で、いつも一杯につき、きちんと60粒数えてコーヒーを入れたそうです。1770年ドイツのボンに生まれる。ハイドンに師事するために21才から生涯ウイーンに定住。その頃のヨーロッパはコーヒーが大流行していました。コーヒー店は大盛況、人々は談笑し情報交換の社交の場でもあったのです。作家や音楽家のコーヒーに関する逸話も多く、フランスの啓蒙思想家ボルテールは一日50杯のコーヒー飲んでいたそうです。
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1775年頃 |
日本に来たスエーデンの植物学者であり医学者でもあるカール・ペーター・ツンベルクは自署「ツンベルクの日本紀行」に「日本人は西洋の酒や食物を容易に受け付けず、通詞の何人かが珈琲をのむくらいだ…・・」とある。また、有名なシーボルトは後の人ですが、この人も日本人について「日本人は茶を好み、交際好きな人種なのにさっぱり珈琲を飲まない」…このように日本に珈琲が伝来しても広まらなかったのです。それは日本には茶があったからだといわれています。 |
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1792年 |
珈琲の文字が出てきた最初の文献で蘭学者、志筑忠雄の訳書「万国管窺」(ばんこくかんき)で、その中の有名な一説で「阿蘭蛇の常に服するコッヒイというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」とあります。 |
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1797年 |
コーヒーがわが国で普及しはじめたのは明治時代も中期の21年、上野の『可否茶館』からといわれていますが、それ以前、江戸時代、それも寛政9年(1797福岡、大宰府天満宮にコーヒーが白砂糖と共に献上されていたことが、江戸時代の大宰府天満宮の社務日誌『延寿王院鑑寮(えんじゅおういんかんりょう)』に記録されています。 |
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鎖国下の当時、外国人が往来していた長崎・出島では飲用されていたものの、出島を除いた国内のコーヒーの記録では最古のものと推察されています。 |
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1804年 |
多芸多才な文化人であった江戸の人、長崎奉行所に派遣された、太田蜀山人(本名 大田覃)は始めて珈琲を飲んだことを次のように残しました。「紅毛船にてカウヒイというものを勧む。豆を黒く煎りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げ臭くて味うるに堪えず」 |
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1826年 |
ドイツの医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、コーヒーは長寿をもたらす良薬であると「薬品応手録」でコーヒーをすすめました。
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1840年 |
サイフォンは1840年イギリスのロバート・ナピアーの考案した、蒸気吸引式コーヒー抽出器具が最初です。その後ダブル・グラス・バルーンと呼ばれる円形のガラス球を上下に連結させた、サイフォンの原型が1842年にフランスのリヨンでマダム・バシィウにより考案されます。
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1857年頃 |
十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は蝦夷地(北海道)勤務の幕臣達に長崎出島のオランダ人からの献上された珈琲豆を一袋づつ配布したそうです。 |
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1858年 |
自由貿易の開始でコーヒーが正式に輸入されるようになった。 |
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1869年頃 |
(明治2年)鎖国が解かれ横浜などにできた外国製の雑貨店などで珈琲も扱っていたのだろうと思われますが、その頃の新聞の広告に、「生珈琲・並焼珈琲」とあるようです。
スエズ運河開通(長さ163km幅34m深15m)これによってインドからヨーロッパへのコーヒー運搬日数が大幅に改善された。しかし、インドモンスーンは自然な航海では作れなくなりインドは独自の環境を利用した「インドモンスーンコーヒー」を復活させた。 |
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1870年頃 |
アラビカ種の突然変異種であるマラゴジベはブラジルのバイア州で発見された。 |
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1878年 |
小笠原で初めてコーヒーの栽培を試みられました。しかし収穫はあったものの採算ベースに合わず以後の実用栽培行われませんでした。現在でも栽培が試みられた土地に「コーヒー山」という地名が今も残っています。「純国産珈琲」として大変貴重です。 |
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1882年頃 |
コーヒー先物取引所を開設。これが現在のコーヒー・砂糖・ココア取引所(CSCE)の前身、ニューヨーク市コーヒー取引所です。 |
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1882年(明治15年)日本初の小笠原島での珈琲栽培と収穫が行われた。 |
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1886年 |
1886年(明治19年)東京日本橋小網町に「カフェー洗愁亭」開業 |
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1888年頃 |
珈琲豆が輸入品としての記録がはっきりとして残っているのは1877年(明治10年)が最初で、輸入量は生豆18トンだったようです。ちなみに価格は1kあたり32銭6厘でした。 |
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1888年(明治21年)東京上野(下谷黒門町)に第1号喫茶店「可否茶館」が開店、名付親は有名な石橋思案でした。しかし、開店後4年目に閉店。当時の国内珈琲消費量は年間60トン位で価格は1袋60sで20円でモカやブラジル種が多かった。珈琲1杯1銭5厘・牛乳入珈琲は2銭・(当時大工の日当が東京で50銭) |
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1898年 |
アフリカのコンゴでロブスタ種のコーヒーが発見され、次いで西アフリカでリベリカ種のコーヒーが発見されました。 |
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1902年 |
@国際コーヒー会議がニューヨークで開かれた。 |
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Aロブスタ種コーヒーがジャワ島に伝った。 |
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1910年 |
横浜に珈琲の喫茶挽き売り店「不二家洋菓子店」が開店した。 |
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1910年 |
東京銀座に「カフェ・パウリスタ」が開店、日本で本格的喫茶店の始まりとなった。 |
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1915年 |
ブルボン種の突然変異種カトゥラとしてブラジルのミナス・ジェライス州で発見される。 |
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1916年 |
珈琲生豆の輸入量は118トンに・・・徐々に増えていった。 |
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1921年 |
ジャワ島で生育するアラビカ種コーヒーだけを「ジャワ・コーヒー」として販売できる権利をアメリカ農務省が決定た。 |
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1922年 |
コーヒーに関する本格的書物、「オール・アバウト・コーヒー」がウイリアム・H・ユーカーズによって著されました。 |
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1923年 |
イタリア政府がエトルリアにコーヒーの栽培を伝えた。 |
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1927年 |
ブラジルでコーヒー伝来200周年記念する祝賀会が開催された。 |
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1929年 |
西アフリカ(フランス領)に初めて珈琲が植えられた。 |
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1931年 |
ブラジルのサンパウロで、国際コーヒー会議が開催された。 |
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1934年 |
コロンビアコーヒーの輸入開始され、このころカフェは全国に広まって全国で約3万軒余に |
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1935年 |
喫茶大流行となり学生なども集まった。 |
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1937年 |
1937年(昭和12年)3月の雑誌「珈琲研究」に「世界最高のブリュウマウンテン珈琲は2月中旬頃に入荷する予定であったが・・・」という記事がある。つまりこの年がブルーマウンテン初登場の年である。更に「英国皇室ご用達」というコピーも創られた。途中輸入は中断され1953年(昭和28年)に再開された。 |
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1943年頃 |
ムンド・ノーボはサンパウロで発見され、改良されて1950年頃からブラジルで栽培される |
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1956年 |
インスタントコーヒーが初めて輸入許可された。また、コロンビアでハビエル・ベレイラ翁の167歳を祈念して切手が発行された。長生きの秘訣は「葉巻を吸い珈琲をたくさん飲んでつまらないことにくよくよしないことだ」・・・らしいです。国産のエスプレッソマシンが初登場。 |
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1958年頃 |
ロンドン商品取引所(LCE)で、初めてロブスタコーヒー先物取引が開始 |
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1961年 |
インスタントコーヒー輸入自由化される |
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1962年頃 |
国際コーヒー協定締結 |
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1963年 |
日本珈琲輸入協会、日本グリーン珈琲協会が設立され、全日本珈琲協会が新体制で再発足 |
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1965年 |
全日本珈琲協会が解散し、全日本コーヒー振興協会が発足。翌66年には、全日本コーヒー協会と改称しています。 |
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1966年 |
全日本コーヒー振興協会が全日本コーヒー協会と改称。 |
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1972年 |
「学生街の喫茶店」がガロというグループによって大ヒット |
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1973年 |
第二次国際コーヒー協定の期限切れを迎え暫定的に延長される。 |
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1974年 |
珈琲の原産国表示が開始された。 |
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1980年 |
全日本コーヒー協会が任意団体から社団法人化され、農林水産大臣の認可を受けた。 |
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1983年 |
1983年の国際コーヒー協定(第四次国際コーヒー協定)が発足した。 |
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1985年 |
ブラジルの大干ばつで国際相場が急騰した。 |
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1988年 |
11月高鍋町にMY,COFFE HOUSE開店
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1991年頃 |
ブラジル商品先物取引所(BM&F)は、ブラジルで最大の取引高を誇る取引所であり、コーヒーは農産物取引の中心的な存在です。ブラジル商品先物取引所は、サンパウロ商品取引所(1917年開設)とマーカンタイル取引所(1985年開設)とが1991年に合併し誕生した取引所である。 |
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2005年 |
MY,COFFE HOUSE新店舗開店(7月)
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2008年 |
2008年9月10日「コーヒーチャフ除去装置」実用新案取得
登録実用新案第3145191号 出願番号 :2008−4895
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