光野浩一、某日の記憶のかけら。




June.29th.2013






アートはある意味、通信手段であり、不死のための手段でもある。


facebook上のやりとりをするものの、会えず終い。大学時代にイーゼルを並べた大森さんの国画巡回展情報を知り、福岡へ。

縁の深い土地であるのにめっきり泊まりにくくなった。海外からの観光客や新幹線の所為だろうか。




トリックアートのように無邪気な享受も許されるだろうが、日常感覚や世界認識に対する問いや絵画にできることの答えを内包する、奥行き実寸以上に深い作品だ。

作品が思考そのものであることを思えば、これも再会に間違いなく、対面して言葉を交わすに等しい。

無論、随分作風は変わっているが、それでも彼らしいと判るリリカルな仕事ぶりが愉しく、頼もしく思った。




不死のため手段?  制作した時分の思考は歳を取ることなく作品から語られるということ。

それが青臭くて恥ずかしいこともあるが、この再会のような幸福をも確かに裏付けるのだ。




(彼は「大森さん」だ。そう呼ぶことがしっくりくる、それだけの話だが。 画像はこの時期の福岡の華・飾り山笠。大森 啓その人の作品ではありません。)