光野浩一、某日の記憶のかけら。月一回、一日分のみ掲載。




June.11th.2011



 




かつて村上春樹は「オジサンだって傷つく。でも、ある日ナイーブなオジサンでいることを格好悪く思い、そうであることを止めてしまった。」というような内容のエッセイを書いた。

自分はそうはいかないようだ。失ったり取り戻したりに一喜一憂、その繰り返しだ。


賛否を呼んだスピーチは『非現実的な夢想家』であれと結ぶ。彼自身はどこまでも透明でリリカルな文章を書く村上春樹その人で良いと思う。

可能なこととそうでないことをあくまで小説家として引き受け、小説家の関心をもって話しているのだろう。 だが、世間はそれだけであることを許さないようだ。

要約してしまえば身も蓋もない内容でも、彼は重みある言葉でその機微を伝えた。それが彼の仕事だ、それで十分ではないか、と自分は思う。



敬愛してきた坂本龍一は音楽家であって環境活動家ではない。

オノ・ヨーコに対する敬意も芸術家としての彼女に対してだ。

一人の人間であること、アーティストであること、職業人であること、活動家であること、それらはどこまでひとつであり得るのだろう。



迷いは多いが、アウトプットは常に作品でありたい。それを崩すつもりはない。





(ただ、スティービー・ワンダーやマーヴィン・ゲイは割り切れても、オノ・ヨーコやヨーゼフ・ボイスはその一貫性にこそ魅力があるわけで、実のところ割り切りは難しいですね。)