Past days 2018

2018年某日の記憶の欠片

2018

Jan.4th.2018

この年末年始はお決まりの福岡。
九州国立博物館では1日から仙厓さん。おおらかな筆致が好きなのだが、太宰府天満宮参道の人混みを縫う気力は無く、今回は見送り。

久々のサナトリウム。無影灯がいくつも付いて怪しさパワーアップ。退店の際に「おだいじに」と言ってもらえるのが素敵。
サンセルコにも新しい発見が。ここはホテルニューオータニのサービスショップ街とドア一枚隔てるだけでカオスな世界。
よく見ると画廊・古道具・刀剣に個人美術館とディープなスポットが集中。

その隣・柳橋の市場も面白そうだが、また次回。

 

 

Feb.25th.2018

「10年続いてしまったアートイベント」というキャッチフレーズも愉快な鹿児島・日置市『吹上ワンダーマップ』。
首謀者・カズヒロハカタさんが圧倒的な個性とパワーで町民を巻き込み、継続させてきたアートイベントだ。
展示自体にシリアスさはないが、M・A・Pの足跡にも重なる良さがあり、街巡りも愉しい。
夜のステージは演奏・ダンス・演芸等々バラエティに富んでおり、映像も音楽もクラフトワークほぼまんまの
パロディに子供から年配者までが乗る、その意外性が愉快だった。

この地には何回か訪れているが、由緒正しい温泉地であり宿泊にも適しているということは初めて知った。
一区切りとはいえ、まだ可能性はある。

 

 

Mar.30th.2018

お別れの会ステージ上で次の仕事の着信があり驚く。
式直後に入った別の連絡は、恩人である柳瀬祥一先生の訃報。
通夜出席のため車を飛ばす。

先週開かれた個展の終了と同時のご逝去だったというが、なんとも絵描き冥利に尽きる幕引きではないか。

不思議なタイミングに幻惑を覚えると同時に、留まるものなど何もないのだと実感する。

 

 

Apr.1st.2018

食事に出掛けた宮崎空港で、偶然黒木周さんの個展に出会う。

整然とした配列の中で響き合う作品。形があり、色がある。ただそれだけのことなのに何故こうも心動かされるのか。

周さんの生み出す形態や色は、他に意味や物語を想起させはしない。ただただその在り様が強く美しい。
(私にはそう思える。そしてそれはミニマルにない豊かさに満ち溢れたものだ。)

平面作品が死なない根源的な理由・魅力と不思議にいつも引き戻される。

 

 

May.7th.2018

日々を追われて過ごし、ここしか動けないからとノープランでいつもの処に出掛ける、というのがこのところのGWだ。
リニューアルは気になっていたので、まずは北九州市美に。
どこが変わっていたのか自分は見つけることができなかったが、拍子抜けの反面、大きく安堵する。
(元々此処は格好良いのだ)

現代美術の大作に見るべきものは多いが、中でもダニ・カラヴァンの、殿敷侃に捧げるという大作インスタレーションはどうだ。

これは間違いなく天国への階段だろう

 

 

June.17th.2018

「光野さん、これ好きでしょ。」と誘われて行かぬでか!とHさん一行に加えていただいた熊本市現代美術館。震災以来はじめてだったが、見た限り馴染みの店は変わらずなによりだ。

さて、企画は「渚・瞼・カーテン  チェルフィッチュの〈映像演劇〉」。
一切の予備知識無しでの鑑賞だったが、暗い会場にはごくシンプルな構造物少々のみ。
虚実、客体と主体、現実と虚構、無為と作為、あらゆる対がふっと裏返ったり曖昧になったりする。
それらの狭間にある意識に触る瞬間があるというべきか。良いものを観た。お誘いに本当に感謝。


同行者、発注物の制作でお世話になっているWさんにもいろいろ相談でき、無理だと思っていたものの制作にも光が射す。
頭を抱える日は多いが、いろいろなことが続けざまにうまく回り出す日もあるものだ。
今日がそれか。

 

 

Jul.14th.2018

KIRINJI福岡公演(国内5公演初日!)。チケットはA1と優越感に浸っていたが、実際はFC枠先行なので美味しみはなし。コトリンゴ抜けは寂しいが、セットリストも意識できないほど押しまくる展開。
堀込高樹氏の圧倒的な魅力は勿論、弓木英梨乃さんの存在感はユニーク。
キュートなボーカルチューンで会場を魅了したかと思うと、手練れ揃いの更に前へと凶暴なギターサウンドを繰り出す。
ラスト近くは人力(じんりき)エレクトロニカのシリーズでフィジカルに押す!

ギャラリー巡りもしないまま、翌朝のバスで宮崎へ。

ふと新曲「時間がない」を思い出して感涙。半ばを過ぎた人生を想い、あるだけの愛を伝えようと決心する男の等身大の歌。
もう決して若くない男の堂々としたダンスはどこか滑稽で悲しいが、どこまでも真っ直ぐで清々しい。

そう、大きなスーツは僕らのかつての若者時代の象徴。
これは僕らの姿。

 

 

Aug.25th.2018

8月15日正午、巷には黙祷の時間が訪れる。
以前は太宰府天満宮境内で経験したが、今年その瞬間は福岡アジア美術館、アニッシュ・カプーア作品の前で迎えた。
ぽっかりと口を開けた青い闇の前に象徴的な静寂が訪れる。


以前、同作品を恐れて泣き出した男児を見たが、彼にはその正体の一端が見えていたのだろうか。

 

 

Sep.20th.2018

本年度、母校の高校に旧知のS先輩が赴任された。

「高校時代の作品を発見したので取りに来い」とのことで行ってみると、2年の夏に描いた油彩自画像を渡された。

形の狂ったパサパサの画面に赤面。

更に恥ずかしかったのが裏に木炭書きした題名。「高2にして中2病」というようなもので、一気に顔から火が出た。
えー、虚と実がゴニョゴニョ…これはとても書けない。
同時に同校の記念ギャラリーに収蔵されていた作品を補修のため受け取る。
扱いが悪いのではなく、夏の猛暑による接着剤の劣化が問題のようだ。思ったより対策に時間を要するか。


忘れてはならないもの、忘れてしまいたいものがある。
写真の恥ずかしさには冷静になれるが、作品に定着された想いはそれよりはるかに生々しい。

 

 

Oct.27th.2018

高鍋町立美術館・齋藤秀三郎さんの個展初日。
96年福岡個展でお会いして以来のお付き合いになる。かつてお呼びすることは叶わず、
いつか宮崎に紹介するのは自分だと、半ば勝手な使命感を持っていた。
今回の展覧会は先を越された思いだったが、実際に作品を拝見して狭い了見は吹き飛んだ。
結局自分は手を拱くだけであったし、実現したとてグループ展ベースで魅力を伝えることは十分でなかったろう。

これでいいのだ。

「96歳の現代美術作家」というサブタイトル、少々違和感を感じる。
ギャラリートークには当然、九州派や地域との関わり、戦争体験についての質問が相次いだが、要は過去のことなのだ。
日々を生き重ねる現代美術家として福岡アートシーンの中心で発信を続けていることにこそ齋藤さんの魅力があるのだが、
この意味での現代性にこそ注目が集まってほしいところだ。

 

 

Nov.25th.2018

ひとまずの一枚。
2月・佐賀県美での発表に向けて急ピッチ制作中。
一見ゴミのようなパーツの山。まだまだ続く。
実は引き返すことのできない面倒に首を突っ込んでしまったのではないかと怖くなる仕事量、無事完成に漕ぎつけるか…

伊藤潤二の「戻れない穴を直進するうち体が締め上げられてくる」ホラーが脳裏に浮かぶ。
いや、養老天命反転地の地下迷路「地霊」のような信頼と安堵・発見を伴う道行きであってほしい。


全く新規の実験作には言い知れぬ胸騒ぎがつきまとう。

 

 

Dec.29th.2018

大物量戦とも言える制作のため、思えばこの一年は福岡行きもままならなかった。市内から実家へ厄介な土産を持ち帰る訳にもいかず、ほとんど馴染みの場所だけで過ごす。
美術館やギャラリーはもう閉まっていたが、貘は覗けた。

八尋さん+こうたくさんの展示は空っぽの腹をどついて眩暈を呼ぶほどの鮮やかな毒気に溢れる。すかさずメトロポリタン投入。
アルティアムの展示では商業とポエジーの関係について考えた。成程見せ方は面白い。

家族揃って年を越せることは喜ばしいが、何もしないことが苦手な性分で、2日にはバスに飛び乗り、塗装ブースの中に戻る予定だ。

年が明ける。