Jan.20th.2015 |
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たまに突然、何の脈絡もなく誰かの名前や物事の名称が思い浮かぶことがある。
漫画家とは知っていたものの、昔単行本の表紙を見たことがある程度で読んだことは無い。検索してみると繊細な線が織り成す透明感が印象的な画面が現れた。
驚くと同時に、宮崎がスポットを当てるべき人はまだまだいるのではないかと考えてしまった。
手に入れた単行本にあったのは、70年代のドラマで見たトウキョウの空だった。
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Feb.16th.2015 |
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宮崎県庁、UDコンクール表彰式。
手柄は教え子のもので、こちらは祝う立場だ。
UDを教えたのはある意味アンチテーゼ。たいした検証や確信もないままに導入を急かされる状況に嫌気が差していたのだ。
座ることを拒否する椅子、養老天命反転地そしてピーキ―な専用ツール。
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Mar.15th.2015 |
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何かを観たい、という渇望。緩い焦り。
低い雲の立ち込める霧島アートの森。
常設作品との再会は愉しい。日常への軽い裏切りと思い込みの修正。
2週もすればこうも行かないんだろうな。
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Apr.30th.2015 |
やっと、やっと今になって動き出したようだ。
前回の「アートこらむ」をきっかけに、宮崎の美術シーンにキュレーションは存在するのか?という宮崎の特異性に関する問題にようやくメスが入りそうだ。
作家にとり作品制作とは・作品発表とは、ある意味自らを問題にしたキュレーションとも言えるが、この意識の欠如こそが宮崎で作家が育たない理由だと考えている。
キュレーションが問題にされない環境で作品に触れてきたのなら、そもそもその意義などわかるはずもない。
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May.6th.2015 |
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GW。
大分市立美術館・大分県立美術館・坂本善三美術館・小鹿田の里・共星の里・不思議博物館・貘・おいし・アルティアム。
生活と美術とコミュニケーション。日頃散々考えているけれど、「悩むようなこと?私らずっとこうだったよ」と笑われそうだ。
企画ありきというより、各展示室のテーマを吸い上げてまとめた印象の大分市美。ネオダダ関連の充実振りが堪らない。レストランも良い。
まだまだ観るべき場所は多い。まだまだ九州は広い。
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June.30th.2015 |
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母の一周忌の集まりを終えて帰る。
覆っていたパネルが外されて顔を出した、真新しく洒落たバスセンター。
皆歳を取る一方、街は日々生まれ変わる。
何者も留まらない旅の一場面か。
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Jul.11th.2015 |
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美大時代の後輩にして敬愛の対象・細田守監督の最新作「バケモノの子」。
「成長する」「親になる」とはどういうことか、彼の実感がしっかりと伝わる傑作。
(毎回金沢時代の友人にしか判らない想い出のモチーフが必ず登場する細田作品。 今回、まさか頑固一徹か!?) |
Aug.23rd.2015 |
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逝く夏を惜しむべく、慌てて出かける癖は今年も治らない。
子供が泣かない程度に怪しく、そして愉しい。なにより意外な場所で獲物を待つのが素敵だ。
この日は奇しくも角さんの誕生日。カレーライスに立てられた「肺」のフラッグがなんとも可笑しい。
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Sep.21st.2015 |
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M.A.Pは解散したが大人の好奇心は終わらない。さして面白くないデスクワークにふてていた折のお誘いは感謝に余りある。行かいでか!
目指すは大分・「混浴温泉世界」。「国東芸術祭」・OPAMの開館もそうだが、アートが熱い湯気を噴出する土地だ。
「トイレンナーレ」も面白かったが、作品が束になっても敵わないほどの街の風情・生活感。対比としてそれを味わう旅だった。
(画像は西山美なコのトイレンナーレ作品。大ベテランにしてブレませんね。) |
Oct.18th.2015 |
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霧島アートの森・藤浩志展。
鹿児島と縁の深い作家であることを思えば、ここで扱われるに余りに遅い。
ひとりクロニクル。定点観測。“MESSAGE’97”でご一緒したが、その後の自分の発表を自然と参照してしまうつくりだ。
などと言ってももとより太刀打ちできない行動力。視点はユルく見えてその実明快・強力。物差しを同じくしてもモノが違う。
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Nov.24th.2015 |
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福岡県立美術館・九州コンテンポラリーアート展搬入。
上を下への大騒ぎとは対照的な、1階ロビー裏口の張り紙。
どの作家が描いたのだろう?
猫も鑑賞に来る美術館、なかなか魅力的ではないか、と緩む。
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Dec.25th.2015 |
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本年トリとなった福岡・貘での個展。
今回は古くから活躍されていながら初めてお話した方が多く、非常に愉しい発表となった。 もちろん常連の作家諸氏との対話も有意義だ。
「抽象的な生死より我々がいかな生を生き、いかな死を死んでいるかだ」
「自分が志向してきたものはカタカナのアートなどではなく、徹頭徹尾、現代美術ではなかったか」と洩らす自分。現代美術の崩壊をリアルタイムに見てきた元村さんの静かな語り。「続けることで(時代の)何かに常に触れている気がしている」というマスター。
そのひとこと・一瞬のためにここでの発表があるのだ。
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