Past days 2013

2013年某日の記憶の欠片

2013

Jan.1st.2013

溜めた仕事も年賀状も持ち越し。すっきりとはいかないが、ともかく拝んだ初日の出。。
今年も雪の正月。

しんと静まったこの空気の向こうに大宰府詣での喧噪があるのが不思議だ。

 

 

Feb.2nd.2013

福岡現代美術クロニクル。 あらためて見ると、ほぼリアルタイムの体験。案外重要な企画展は観てきたものだなあ、と我乍ら驚く。
見知った作家の旧作を味わうのも何か得な感じだ。 これが網羅かと探ればきりはないだろうが、よくまとめた掴み易い展示には好感が持てる。

もうひとつのメインイベント、福岡ダンスフリンジフェスティバルvol.6。
大学時代の友人にして今や舞踏家・吾妻 琳の出演とあっては見逃せない。

ダンスといっても最早演劇やパフォーマンスとのボーダーなど意味を成さない。さっきまで隣席で軽妙なトークを繰り広げていた彼も、ステージでは別人だ。

一挙手一投足が肉体以外の何かを掴み、イメージを紡ぎ出していく、その新鮮な感動。


皆それぞれに歩いている。再会の歓びは、その差異に対する敬意にも根差す。

 

 

Mar.5th.2013

望まない引越し準備に明け暮れる毎日。とにかく連休くらいは出歩こうと決めていた。
東京。兎にも角にもフランシス・ベーコン。絵画を志していた頃からの目標。
現代美術がコミュニケーション指向でやたら開かれたものになることに疑問を持っているが、それは彼への共感に根差す。

まずは生き抜こうとする人間であること。寄り添う影のように表現が在ること。たとえ見苦しく足掻く生であっても、与えられる祝福の形。それが美術。
私小説が作品の理由付けになることを良しとはしないが、語らずとも感じる強度が確かに在る。


無論、他の展示も愉しまなければ勿体無い。背景を云々しなくとも「かわいい江戸絵画」に萌え(!)、「LOVE展」でジェフ・クーンズのからりとした悪意に唸った。


気になる作品に何気に出逢える、それが東京のポテンシャルなのだ。当り前の事実に感動を覚えると同時に、情報以上の記憶として残ることの難しさも考えてしまった。

まずは生き抜くことなのだけれど。

 

 

June.29th.2013

アートはある意味、通信手段であり、不死のための手段でもある。

facebook上のやりとりをするものの、会えず終い。大学時代にイーゼルを並べた大森さんの国画巡回展情報を知り、福岡へ。
縁の深い土地であるのにめっきり泊まりにくくなった。海外からの観光客や新幹線の所為だろうか。


トリックアートのように無邪気な享受も許されるだろうが、日常感覚や世界認識に対する問いや絵画にできることの答えを内包する、奥行き実寸以上に深い作品だ。
作品が思考そのものであることを思えば、これも再会に間違いなく、対面して言葉を交わすに等しい。
無論、随分作風は変わっているが、それでも彼らしいと判るリリカルな仕事ぶりが愉しく、頼もしく思った。


不死のため手段?  制作した時分の思考は歳を取ることなく作品から語られるということ。
それが青臭くて恥ずかしいこともあるが、この再会のような幸福をも確かに裏付けるのだ。

 

 

July.14th.2013

霧島アートの森・高橋コレクション第2弾。

べったりと不本意な忙殺から逃げ出して美術館へ、
鑑賞する脳の裏側で「自分はどうだよ?」と問いかける、
その繰り返しだ。

発表も近付く。そろそろわかる形にしておこうか。

 

 

ムラカミの初期作品2点、どうもタイトルが入れ替わっている気がするのだけれど、カタログ通りだ。本当だろうか?

 

Aug.24th.2013

期限の迫ったホテル優待の消化。何もせずに天神で過ごすのも悪くない。

ねらいと言えば、三越で開催の友人・恩師のグループ展。
場所が場所だけに、商品としての完成度を意識してしまうのも無理はないが、事実それに応える仕事が立派に成されていたと思う。
大学時代、絵画の工芸性については良く議論したが、そのことが鮮やかに思い出される。

思考が画面の表層に留まることを嫌いながら、絵画と空間表現の間を右往左往する自分に対し、あくまで絵画の力を信じる友人。

「表面は大事だよ。」と、大森さん。
「たかが絵画」と漏らしたことを竹谷に咎められたこともあったが、その絵画を前に毎日悩み抜いていた。
そう言えば成田も「工芸的であることを要求されるのが嫌でな」と話していた。
前田先生は絵画の位置付けについてヤン・フートに食らいついていたっけ。もちろんヤンはあの調子で応酬した。

薄皮一枚の絵画表現、皆その奥深くに迫ろうと必死だった。

おめでとう。ここにあるのは間違いなくアンサーだ。 だが、みんな未だ見ぬ正解を探し続けるのだろう。

 

 

 

Sep.29th.2013

かごしまアートフェスタ2013。記念トークのゲスト情報に驚き、いてもたっても堪らずに会場を目指す。
巨匠・冨田 勲。

TVの成長と共に有り、幾多の名曲を生み出した偉大な作曲家。そして、他の追随を許さない稀代のシンセシスト。
小学生の時分に『宇宙幻想』を手にして以来のヒーローだ。レコード盤に穴が開くほど、とはあの状態を指すのだろう。

元来メカフェチであった自分自身がシンセサイザーの実機を何台も遍歴するきっかけとなった人物であることは勿論だが、
芸術家への憧れや職人芸に対する畏敬の念を抱くようになったのは、冨田氏の作品に依る所が大きい。
Ars Electronica参加作家だけあって現代美術に対する造詣の深さに驚かされたが、冨田氏の本質は常に新しい方法を取り込んで自分のものにし続けるところにある。

なにより自分は音楽家であるという姿勢を崩さないこと、その充実した力量が彼を「かつてのパイオニア」としてノスタルジーの彼方に埋もれさせたりはしない。

宇宙、そして少年時代の話。そのどれもが音に対する鋭敏な感覚に彩られている。

トーク終了後、同席された河口洋一郎氏、樋口真嗣氏を袖にする体で申し訳なく思ったが、強引に握手と写真を申し出る。
多少驚かれたご様子だったが、微笑と共に差し出された手はしなやかだった。

 

 

Oct.31st.2013

何かに使えそうだと壁の塗料剥げを撮影。さして意味は無いが、最近意味の無いことに目を向けることが少なくなった。
必要や意味が穿った点。それを結ぶ日々の営み。
アート自体、それを断ち切りつつ生の深部に迫る行為だが、実際の展示準備自体がルーチンワーク化しないよう、発見を重ねたいものだ。

制作が楽しいか?

想いが上手く像を結ばないもどかしさや自分を苛む自問自答の苦しみ。時折現れる、霧が晴れるように清々しい瞬間と確信。
とても一言では表せないが、自分にとっては生きるための投薬に似る。続けていくことは確かだと言える。

 

 

Nov.30th.2013

福岡天神・アートスペース貘 個展。
続々追加される後出しの用事に悲鳴が上がるも、それでも無事実現したのは何より。
全ては手を差し伸べていただいた方々のお陰だ。なんと有難い事だろう。

気になる作家諸氏との対面。中には作品は長年見知っていながら、初めて出会えた方も。

そして知った、出会わぬままの退場。

遺作だという新刊本に見つけた、金沢時代馴染みの喫茶店。その終焉を見守ろう、と綴られていたものの、彼が叶えることはなかった。

形を成さないものの繋がり。人間の生を彩り、補遺するもの。それは確かに実感できるけれども、同時に儚い。
遺せないものに形を与え、語らしめようという足掻きこそが我々の業なのだ。ゴウともワザとも読んで差支えない。

道徳で量れない誘惑が頭を擡げることはあるが、みっともなく足掻きながら生きるばかりの自分。


会うことのなかった貴方。 もう良かったのですか。

 

 

Dec.9th.2013

福岡個展が昨日で終了。


搬出も無事終わったとのことだ。親身に助けてくれる人がいるのは有難い。
かく言う自分は京都の空の下、古都の景観を味わうでもなく無粋な用事に縛られている。


石段横の茂みに美しい三毛猫が潜んでいた。
色づいた風景に静かに溶け込んでいる彼女がひどく羨ましい。


もう年が暮れる。