Past days 2012

2012年某日の記憶の欠片

2012

Jan.12th.2012

年明けての福岡・貘。

 

今日はいつもと違う空気。
バタバタと鳴る床に明るい声。縁の客が子供達連れで来ているようだ。
ぐっと下がった平均年齢が微笑ましく、愉快でもある。
応対に忙しい小田さんとの話もそこそこに、今年最初の目玉展示を観る。

 

大浦さん・佐々さん・末藤さんの御三方が組むとあっては放っては置けない。
美しい統一感と不穏な違和感の同居はこの企画ならではだ。

 

市美・鈴木さんの企画展。人の生きるこの世界のふくらみを意識する。

 

短い滞在だが、良いものに触れたと思う。

 

 

Feb.12th.2012

福岡。読売・小林さんの退社祝賀パーティー。

グランド・ハイアットというロケーションは勿論だが、この豪華な面々はどうだろう。福岡の美術界が爆縮しているようだ。

これは所謂上澄みのお付き合いではなく、小林さん本人の肉弾戦の賜物だ。
柔和な笑顔・熱い語り口・深く鋭い指摘 どの瞬間にも魂が宿る。


幾度も発表を観て頂き、記事にもして頂いたが、的外れな提灯記事など一つもない。
 「解せんなあ」と、眉をしかめた彼に切り込まれたこともあるが、そうして紡がれた文章にはこちらがはっとする、新しい解釈が息づいていた。


誰かのために創る、というのはどこかウソくさいが、この人に認めてもらいたい、と思って創ることはある。
自分の場合、そのひとりが彼だ。

ものを書くことは続ける。視野が自由になった。 そう言う彼にこれからも期待したい。

 

 

(貘でのアットホームな二次会も楽しく、とても有意義な夜でした。作家・酒井忠臣さんと小川幸一さんの飄々とした掛け合いが面白く、程良くお酒も進みました。)

 

Mar.25th.2012

街角に立つこれは何の呪いだろうか。

5月後半に迫る熊本展。壁面や搬入口の下見に県美分館へ。
個性的でありながらも融通の効かなそうな空間。コンディションは判ったが、実際どのような展示になるのだろう。
頭の痛い搬入出。制限もまた作品を創るのだが、まだしばらくは悩むことになりそうだ。

この時期特有の言い表せないメランコリー。
 慣れ、ということはないらしいが、慣れた顔をしてみせることが上手くなれるのだろうか。


風雨に曝される以前の君は、どんな歌を運んでいた?

 

 

Apr.1st.2012

カメラを持ち歩くことも少なくなった昨今。
無理矢理往く春を収めようとする午後遅く。

 

 

May.4th.2012

都城市立美術館・南九州からのSINDOU。

つまらないことに感けて神経を擦り減らすことが多かった中、この会場に身を置けたことは本望かつ上等といったところか。
企画展は見合い、グループ展は恋愛に似る。
敬愛する作家方との共演はスリリングで心地良い。異なる地平を見ながらも、ものづくりとしての良心で繋がっている。

義理がらみが嫌で避けてきた地元での発表だが、観客のありきたりでない反応にははっとさせられる。今迄食わず嫌いだったのだろうか。
メンバーが旧交を温める手伝いも出来ている。まずはやって良かった。

 『館詰め』ではあるが、内部に凝縮するエネルギーたるやどうだろう。

 

 

May.27th.2012

熊本県立美術館分館・九州コンテンポラリーアート 熊本展。

分母の大きな展覧会参加。不安が無くもなかったが、制限の中での工夫や作家間の交流には得難い魅力がある。 お声掛けに感謝。


シンポジウム。 大学時代の合評と見紛う珍展開には呆気にとられたが、パネラー氏なりの方策ではあったようだ。
参加した中学生曰く、「一度世界中のアートをぶちこわして新しく創り直しては?」

 「破壊を望むなら眼を閉じなさい。創造したいなら見開くことです。それで済みます。」とはゲストの名言。

ローティーンならではの考えではあるが、アーティストにとり「はしか」のような想いではなかったか。

でもな。アーティストは君が思うよりずっと聞き分けがなくてしつこくて諦めが悪いんだ。毎日創っては毎日ぶちこわしているんだ。
そう生きることしか出来ないんだ。

 

 

何か懐かしいなと思っていたら、80年代に東野芳明が「日本の貸し画廊は良くない。一度全部閉めてしまったらどうか。」と書いていたのを思い出した。
いい大人が実際に行動した美術運動はというと、ダダをはじめあれこれあった。今やむしろその作品や行為は好ましくあるのだけれど、もう長い間、東野氏のことは忘れていた。

*六月は全くカメラを持ち歩かなかった。周囲を見る余裕などなかったのだろうか。

 

Jul.16th.2012

霧島アートの森・椿 昇展。

 

 

お会いしたのはTさんに誘われての研究会。ハノーヴァ万博の話題から思えば、もう12年程前にもなるだろうか。
御本人のバイタリティ・澱みない話術・豊かな知識をクラフトワークのクールなトラックとセットで覚えている。

 

 

『aesthetic pollution』は学生時代から知っていたが、実物を観るのは初めてだ。
得意のチーム分業制に依らず、お子さんと8畳間程の空間で制作したものだという。
費やした時間の濃密さが豊かな謎を物語る。

 

無論、新作も素晴らしいが、「ついにこれに会えた」という感動もまた得難い。
自分はそういう仕事をどれだけ出来ているだろうか。

 

 

Aug.9th.2012

福岡アジア美術館・恒例の絵本ミュージアム。

角 孝政さんの仕事は相変わらず大人気。この出典は未見だが、サイケデリックなロック風味を感じる。子供によってはトラウマかも知れない。

絵本はよく読むようになった。よく練られた絵や文はもちろん、その豊かな余白が素晴らしい。
この企画などは、子供向けといいながら、自分達もかなり愉しみながら組み立てたのではないだろうか。


さほど心配には及ばなかった実家。拍子抜けしたが、歳は皆例外無く取っている。 同じ夏は無い。

日常を客観視する心の余裕が無いのだろう。最近カメラを持ち歩かない。 何も積み上がらない、気忙しい夏だ。

夕暮れのBARでグラスに上る泡を眺める… 今年も叶わなかった。
ただそれだけ、一時だけのことなのに。

 

 

Sep.29th.2012

鹿児島・天文館の路上にて。

初見は先月。再上映とは大したものだ。こちらも嬉しくなってくる。

昨年再会した折にはまだ絵コンテの段階。全ては秘密のまま打ち合わせに急いだ彼だったが、新燃の噴火が帰宅を阻む。
最後に交した握手。分厚い手を覚えている。 その同じ手が、とても大きな仕事を生み出した。

新しい映像表現に胸が躍った。あれは只の映画鑑賞だったのだろうか?贔屓の選手の大活躍に酔いしれるスポーツ観戦にも似ていた。


本棚の変化は生命のゆらぎと共に。


どうやら彼、大学時代に縁のモチーフを作品ごと、意識的に登場させているようだ。
今回はあの、赤いジムニー。 成程、定員以上の大きなものを載せていた。

 

(その後、彼もおおかみこどもを授かったとの知らせを聞きました。 おめでとう!細田くん!)

大学時代縁のというのは必ずしもそうではないかも知れない。
「時をかける少女」で登場の学芸員室の並びは金沢美大の教官室がモデルだと思い込んでいたが、観直してみると違った。
他の作品では確かに何かしら発見できるが。

 

 

Oct.31st.2012

講談社刊 『現代の美術』。

 

 

確認しているだけでも11冊程だろうか。71~72年発行だというのに、世界の美術動向をしっかりと捉えた中身の濃さに驚いたものだ。
自分の現代美術の基礎知識はこれに根差すと言っても良い。大学時代に貪るように読み、その後も古書店で見かける度にこつこつ購入し、揃えていた。

 

それがごっそり、シロアリに食われていた。
不思議なことに、隣接している本などには全く被害が見られない。
この全集のみが、触るとミルフィーユを潰すように、パラパラと崩れ落ちてしまった。紙質のせいだろうか。

 

いい加減に詰め込まれた本棚の一角のみが小火にでも遭ったかのように不自然に口を開けている。

 

現代美術は何処へ行った?
想い出の喪失以上に、何か象徴的な出来事を目にした気がしてならない。

 

 

(画像ナシ。単に汚いだけなので。)

 

Nov.11th.2012

都城市立美術館・アートカフェに助太刀。
最近M・A・Pにはご無沙汰だ。過ぎては忘れてしまうが、その渦中にあっては息つく間もない。潤いのない毎日だ。

企画展に合わせて、描いたパレットをトレーにしようという試み。まだ生のパレットが助手席に転がっているのも申し訳ない。制作とは別に、無責任に遊ぶも良かったろうに。
慣れないエプロン姿で閑古鳥の鳴くを愉しむも又良し。ここのところ、こういう時間の使い方を忘れていた。
作品を守る、人に見せる。  ただそれだけのことが、なんと難しいのだろう。美術全集を先日失って身に染みる。

本家美術館のドアを行き交う人々。美術を、この時間を求める人がこんなにもいる。  それは希望だ。

そのための忙殺止む無しと思うも、どうも堂々巡りに陥っている。 まあ、今日ぐらいは考えるのを止そう。

 

 

Dec.30th.2012

福岡天神 警固公園。 年賀状も大掃除も棚上げしての帰省。

年越し気分でいたが、思えばクリスマスだってつい先日のことだ。和の雰囲気が溢れる中にあって、鮮やかなギャップに驚く。

街中に突然現れるスケートリンクやメリーゴーラウンド。
子供達の笑顔には和むけれど、夢の企画も大変だなと裏の心配までしてしまうのは、大人の悪い癖か。

一年後は何を抱えてこの場に立っているのだろう、そう思うのも毎年のことだが、実のところ何が待つのか、何が良く影響するのか分かりはしない。


生きることは祈りに同じだ。まずは皆、無事であるように。