Past days 2010

2010年某日の記憶の欠片

2010

Jan.24th.2010

突然の知らせに動転するも、それは新しい現実・新しい日常となりつつある。

病院敷地内にあった落書き。
自暴自棄の拒絶ではなく、どうぞ無事に、という意味だと取りたい。


この親不孝者をまだまだ待ってくれないか。

 

 

Feb.28th.2010

警報でもなければ認識を急ぎもしない。
地球の丸さとつながり。

知識の断片を実感が繋ぐが、それでも欠落する痛覚。

 

 

Mar.21st.2010

鹿児島アート巡りに同行。

又木さんと会場での再会は成らなかったが、鮮やかで風通しの良い作品は変わらない。
以前訪れたスポットも様変わりこそあれ、変わらず活況を呈しているのは流石だ。

若いアーティストが育っているのは良いことだが、自分が地域に成し得たことはいかほどのものか、
現在が自分の目指した状況に近付いてきたのかは判らない。

踏み出す一歩の重みなど、単に時代の所為で片付くのだろう。

春を寿ぐ創作舞踏。

懐かしさ、優しさ、おどろおどろしさ、研ぎ澄まされた緊張感が一体となって胸を打つ。

こうとしか出来ない。生きられない。アーティストを繋ぐ共感とはそれに尽きると信じている。

 

Apr.3rd.2010

感動ではなく、明日の消費のために切るシャッター。

今更の観は否めないが、時々自分が何を観ているのか判らなくなる。

使える現在と使えない現在。

何もわからないことだけが確かで、それでも生きていくことこそが現実。

季節の花は、残酷。

 

 

May.20th.2010

アラカワが亡くなった。


宿命の反転を追い求めた彼のことだ。 その世間的な意味に固執するのはナンセンスだ、まだ解らないのか、と呆れるに違いない。
だが、明らかに狭くなった今日からの世界はどうだ?新作への期待を挫かれた、この喪失感は何だ?

あなたは死なない。それは解っている。しかしそれでも、あなたには言葉を尽くし、作品を出現させ、豊かなブランクにあるものを指し示し続けて欲しかった。


昨夜、あなたの夢を見た。

この日のことを知っていた自分は、大規模な回顧展に慌てて出向き、そこであなたを見かける。
それなのに顛末を知らせる訳でも、残されるべき言葉を懸命に引き出すでもなく、サインのためのペンがないことにひたすら地団駄を踏む。
自分の下らなさを嘆きながらも明日の予定に焦り、古い木造の大阪駅で帰りの列車を待つ。


赤面するほどつまらない、愚かな夢。それでも記しておこう。
  死なないことを忘れないために。

 

 

 

(学生時代より敬愛し続けてきた芸術家/コーデノロジスト・荒川修作の訃報。5/19 NY)

 

June.19th.2010

アラカワが亡くなって現れた世界の天井。加えて口蹄疫の暗雲が都城を覆う。

美術館や図書館などの公共・文化施設はクローズ、それらに勤務の職員も検問消毒や遺骸処理に出されているようだ。
人間の知性を、生きる意味を守り育てる筈の職業人、彼等が直面する酷な程に皮肉な現実。

それを受け入れるともう戻れない  薬殺を前にした牛は悟り、悲痛な叫びを上げて抵抗するという。その叫びは脳裏に染み付き、人の心を侵すという。


感傷でも経済原則でも語るに愚かしい。人は元より勝手な生き物だ。
何を今更。

だが、現在の無力さを以てふたたび問うことを止められない。

生命とは何だ?

 

 

July.19th.2010

霧島アートの森・三沢厚彦展。
口蹄疫の閉塞感からもようやく解放。

鑑賞者の立場としては、洗練されたシンプルな強さのある作品はもちろんだが、日頃自分がまずやらないであろう豊かな手業にも惹かれる。
この作家なぞは、その代表格のひとりだろうか。

彫刻らしい彫刻。おおらかな楽しさ。されど内包された、我々の記憶や認識の仕組みに深く関わる謎。

須田悦弘との二人展も面白いのではないか、などと無責任に考えながら、久し振りの広い空間を楽しむ。

 

 

Aug.5th.2010

こんなことでもなければ、宮崎入りなどなかっただろう。高文祭引率のTと再会。Oの葬儀以来、丁度10年振りになる。


融通効かずで生意気。ぶん殴ってやりたいくらいの過去の自分だが、その自分に多様な価値を与え、揺り動かし、現在の生き方へと導いたのは、紛れもない大学時代の友人達だ。
自分の成長など未だに怪しいが、悪戯っぽい笑顔や出来た気配りはそのままに、彼は明らかに大人の男になっていた。


ぼくらはひとりじゃない、などと嘯く安い歌なぞうんざりだ。だが、それはある意味で的確なのだろう。
知らない自分や忘れた自分も、関わりある人の中で生きている。


同じ時間を共有した、互いの姿を紡ぎ合う。

 

 

Sep.19th.2010

鹿児島市。

このホテルに泊まるのは3回目。私大受験・そして社会に出て5年程してから以来だろうか。
休みにも結局雑事を持ち込んでしまう悪癖は治らない。無理やりのリセットを目論むやり方もスマートではない。


嫌悪は恋愛に似る、とは誰の言葉だったか。
四六時中反芻し、機会が去れば去ったで次の機会に身構える。

それでも来年にはきれいに忘れているだろう。今迄もその繰り返しだ。


併設美術館と銘打たれた、雑然とした古美術倉庫。まだまだだな、と悠久の歴史に嗤われる。

 

 

Oct.16th.2010

都城市美・国立国際美術館展初日。

確かに大きな影響は受けたが、今更デュシャンピアンを名乗る程でもない。それでも矢鱈にコメントや説明を求められる昨今だ。
「この人の作品に詳しい先生がいらっしゃいましたよ」との無茶振りをなんとか誤魔化しながら、そそくさと別室へ。


学生時代に出掛けた「絵画1977-87」展の衝撃は忘れられない。現代絵画の力と新しさに全身を射抜かれた思いだった。
ここでの超大作展示は望めないが、それでもあの感動は甦る。

クールとしか言い様が無いステラとジャッドの対比。物質的な表層と深遠な空間のあいだを引き回すリヒターはいつ観ても見事。
「1988-2010」の新しい作家達との邂逅も新鮮だ。

ファッションやブームと化したアート人気には困惑するが、それさえ気配のない都城にも訪れるのだろうか。こういったときめきは根底で共通するのだろうか。

 

 

 

(画像はポスターの一部を撮影したもの。実物からではありません。こう書くのも既にデュシャンの術中に嵌っているということなのだけれど。)

 

Nov.14th.2010

アートストリート開幕。

ネット掲示板あたりで「こっち見んな画像」として貼られそうな『ときわドラゴン』。
地域の子供達にフレンドリーなイベントでありながら、トラウマになりそうな毒気を盛るセンスは嫌いじゃない。

かつての規模は確かにないが、本当に大事なものが残った気がする。
子供達よ、若者達よ、都城の大人達は結構素敵だぜ。

さて、迫ってきた新作個展。

未だにある迷いや不安だが、本質は日頃の社会生活で感じるものと変わりはしない。自分が納得できる形で痛みと対峙する、それが制作というものなのだろう。

 

 

Dec.5th.2010

福岡個展開幕。

良い作品だと褒められるよりも、兎に角眼前で確認することに意味がある今作。
トラブルに見舞われながらも納得できる形にできたことが有難い。
理詰めの構成がその通りに感じられるとは限らない。学ぶことの大きな展示作業だった。


作家と話せて良かった、と言われるのは嬉しい。自分にも多大な発見がある。

「いつもながら誠実な作品」

元村さんの言葉が何よりだ。彼自身、自らの表現をもって世界と真摯に向き合い続けている作家なのだから、その言葉には力がある。


美しいものだけがあればいいのに、と思わず漏れる。
それは真実でも欺瞞でもある。困難故に憧れは輝くのか。