アートストリート・4年目の現状


「それでは只の遊びになってしまう。」


一スタッフの発言に我々ははっとした。いや!我々がやってきたのは、そしてやりたかったのは、そもそも「只の遊び」ではなかったか!?

アートストリートが回を重ねるにつれてからんでくる、様々な思惑や経済的な現実。規模の縮小を恐れる気持ちも確かに誰もが感じていた。
しかし、原点は「アートで遊ぼう。手弁当で集まって、我々自身、思い切り楽しもう。」ということにあったのであり、そもそも立派なアートイベントの成立に悩むなど、本末転倒の筈なのである。
前述のスタッフの苦言は、大きく膨れ上がってしまったこのイベントに、スタッフ自身が足をとられていたことを無自覚のうち、逆説的に問い正したものと取れよう。
(只の遊びになってしまう…。)
いや、はなから遊びのはずだったのである。そして、それで良かったのだ。

スタッフは、5回目を迎えるアートストリートに向けて、まずは自分たちの姿勢を問い直すこと、肩の力を抜くことから始めた。
次回がどうなるかはまだ見えない。ただ、これだけは言える。
たとえ小規模になろうとも、5回目のアートストリートはスタッフ自身が生き生きと活動する、内部から力漲る楽しいイベントになる。そしてそのエネルギーを面白がってくれる人たちは必ずいるだろう。

「アートのことはわからないと思っていたけれど」
会場近くのレストランで食事の折、店の人にいきなり話しかけられた。以前、派手なスタッフジャンパーを着て入ったことがあるので判ったのだろう。
「なんとなく見続けていたら、ああ、いろんなものがあってもいいんだなと楽しくなりました。全部OK。写生なんかはうまくいかないけれど、自分にもなにかできそうな気がする。ずいぶんとものの見方が変わってきたと思います。ありがとう。」
周囲の人にも良い影響が出ている。暖かく見守られている。嬉しい限りである。

自分にとっての表現とは、自分の存在を確認するのに必要な、痛みを伴う投薬である。遊びとして楽しむことは出来ないし、ここでの出品は場違いだ。
しかし、他者と向き合うことなしに作品は、自分は、そして美術は成立しない。閉塞はすでに死である。
だから私はこのイベントを通じて人と関わる。美術と人との橋渡しを日常レベルで行う。
近年、美術界でもワークショップ形式の作品が急増中だが、本当に参加者の心に残るのは何だろうか。作家が良しとするのはどのような状態だろうか。
プロが浅く思わせ振りな関係や無責任な期待を提供して終わるより、素人が遊びと割り切って工夫し、喜びを分かち合うほうがアートの在り方としてよほど真摯だと、私は思う。
作家の招聘やコンクールを行わず、利害も度外視した、一般市民が純粋に内なる欲求を形にした「アート遊び」。
それを可能にしているこの土地の人たちの元気やユーモア、ウィット、行動力に敬意を表しながら、関わり続けたいと思っている。


その試みが原点に帰り、力を得る。来年は重要な年になるだろう。




注:
この文章は冒頭の発言者について批判することを全く意図しません。
その意見は決して見当違いなものではなく、確かに誰もが心の奥底に抱えていた迷いの一つだったのです。しかし、他者の言葉として受け止める機会を得てはじめて、我々は冷静にとらわれに気付くことができたのです。

ここで取り上げたのは、善し悪しの問題からではなく、それが重要な問題を孕んでいたためですので、どうぞご了承下さい。