閑話挿題 〜其のニ〜 趙石 大体、慣れない大酒を飲んだ挙句にセックスなど、すること自体が間違っているのだ。 本日何度目か分からない大仰な溜め息と共に、伊角は心の底からそう思った。強すぎる酒に侵食された身体は、一夜明けてこれ以上ないほどにしっかりと二日酔いになっていて、その上本来ならば一生体験しなくてもいい筈のコトまで体験してしまったものだから、正直伊角は立っていることも辛い状態だった。一日寝ていた方がいいんじゃないかと言う楊海の心配げな声を振り切って、午後からどうにか訓練室に降りてきたものの、とても勉強どころではない。頭も身体も痛い上に重く、手足も鈍熱を伴って痺れている。全くと言っていいほど何も頭に入らないし、ここにこうしていても全身を押し包むだるさが、時間が経つに連れ徐々に凝っていくだけだ。上体を支えているのも辛くて、伊角はとうとう机の上に突っ伏した。 昨夜の自分は、本当にどうかしていたのではないか。いくら酒に酔ってなりふり構わなくなっていたとはいえ、そして、確かにあれは自分にも彼にも必要な行動だったと今でも思っているとはいえ、まさか、あんな、自分から誘うなんて―――。おぼろげながらに昨夜の自分の言動を思い出してしまい、羞恥と居たたまれなさで消えてしまいたくなる。それに加えて、この体調不良だ。もう本当に部屋に帰ろうかと考えたその時、遠慮がちに自分に掛けられる声があった。 「イスミサン?」 「……趙石…?」 日本語とは若干異なる舌足らずな発音に、伊角は億劫そうに顔を上げた。そこにはどこか心配そうな顔をした趙石が、こちらを覗き込むようにして立っていた。彼が近付いてくる気配にも、全く気付けなかったことに苦々しい気分になる。子供から心配されてしまうほど、今の自分の顔色は良くないのだろうか。 「イスミサン、What’s the matter?」 どうしたの、と英語で聞かれ、伊角は曖昧に笑った。趙石は日本語は挨拶程度だが、英語はそこそこ出来る。棋院での一般教養の他に独学でも勉強しているらしい。日本人に比べて発音と文法がしっかりしている分、伊角よりも英語力は上かもしれなかった。彼は、伊角が北京語よりは英語の方がまだ出来ることを知ってからは、こうしてなるべく英語で会話するように務めてくれていた。本当は北京語をもっと覚えたいという気持ちも伊角にはあったが、気分のすぐれない今は通じる言葉で話してくれるのがありがたかった。 「何でもないんだ…ええと、ドントウォーリィ。ちょっと…、アイ…ドランク、ハーブドリンク」 「Herb drink?」 自分より、はるかに綺麗な発音で返す趙石に、伊角は頷いた。 「うん。是、竹葉青酒」 「竹葉青酒?」 返って来た思わぬ単語に、趙石は眉を潜めた。竹葉青酒が強い酒の部類に入ることは、趙石も知っている。どちらかと言うとアルコールに強い中国の人間にとってはさほどでもないが、日本人の、しかも余り飲酒経験もなさそうな若者が『ハーブ酒』などと言えるような爽やかなものではない。それに伊角は以前、飲みに行かないかという寮生の誘いを、楊海に通訳してもらいつつ断っていたのを見かけた記憶がある。未成年だと言うことをおいても、取りたてて酒好きと言うわけでもないのだろう。趙石は依然気分の悪そうな伊角に、「楊海サンガハーブ酒ッテ言ッタノ?」と訊いた。伊角がアルコールを飲む機会があるとすれば、楊海所蔵のものだろうと見当を付けたのだ。英語での問いかけに伊角は一瞬考えるように言われた言葉を反芻した後、それがどうかしたのかと言う顔で是、と答えた。 「フウン…」 成る程、と言う顔で、趙石は少し離れた所で古参と話している楊海の方を見る。と、視線に気付いた楊海が、何ダ?と言いつつ会話を打ち切ってこちらに歩み寄ってきた。伊角の側にいる趙石が自分の方を見たものだから、伊角に何かあったのかと思ったのだろう。 「どうした?伊角君、まだ気分悪い?水持ってきてやろうか?」 「あ…、楊海さん…」 「――――…っ!」 楊海に対して向けられたその伊角の声質の違いに、側で見ていた趙石はギョッとした表情になった。伊角は意識していないのだろうし、楊海も気付いてはいないようだったが、楊海に応える伊角の声は、明らかに自分に対して話すものとは違っている。日本語で喋っているから、ということとは全く別物だと言うことは、趙石にも分かる。甘えるような、頼り切っているような、子猫が母猫を恋しがるような、そんな彼の声と、そして表情。 まさか、と自分の中に浮かんだ疑問に、趙石は殆ど探るようにして二人を見た。楊海は、椅子に座った伊角の顔を覗き込み、心配げに色々話し掛けている。ちょっと見、身重の妻を心配する新婚亭主と変わらない…などと自然に頭に浮かんだその考えに趙石は自分で驚く。楊海は、伊角を見ている。伊角も楊海を見ている。その間にある雰囲気に、彼はなんとなくだが、感じ取ってしまった。二人の間にある、昨日までとは明らかに違う何かを。 趙石は、もう十三だ。『それ』が一体何に基づいたものであるか、薄々ながら想像の付き始める年齢だった。楊海と、伊角の……恐らく自分の想像は、間違ってはいないはずだ。けれどもその憶測に過ぎない邪推は、不思議と何の抵抗もなく彼の心の中に収まる。嫌悪でも、嘲笑でも、好奇心でもない。ただ、ああそうなんだという気持ちだけがそこにある。いっそこの推測が正しくなければ、却っておかしいと思えるほどに。 「……楊海サン」 「ウン?」 「竹葉青酒ヲハーブ酒ッテ言ッタノ、楊海サンダッテ?」 唐突なその問いに、楊海は相手の真意を探るような視線で趙石を見返し、少しの間を置いてアア、と答えた。そんな楊海の態度に、やっぱり、という顔になった趙石は、少しだけ悪戯っぽい口調で楊海を見上げる。 「デ、イスミサンハ、ソノ言葉ヲ間ニウケテ一気ニ飲ンジャッタンダ?」 「…ソウナルナ」 「―――ワザトデショ」 間髪置かずに入った突っ込みに、楊海が僅かに驚いた顔をし、次いで胡乱げに眉を潜める。滅多に見ることの出来ない表情に、趙石はしてやったりという気分になった。 「……趙、オ前、何ガ言イタイ」 「別ニ?」 飄々と、それでいて満足げに言い放ち、イスミサンオ大事ニネ、と言い置いて、趙石はその場を後にする。とぼけた風を装っているが、取って付けたように楽平!と呼びかける姿がわざとらしい。天然に見せかけて実はかなり聡いあのお子様は、一体どこまで感付いているのやらと、楊海は薄ら寒い気分になった。どうやら伊角のことは気に入っているようだからつつかないだろうが、これから何かと揶揄われそうだと、誰にともなく肩を竦めてしまう。 「楊海さん?」 「ああ、何でもないよ」 やれやれ、と言った風の楊海の態度に、伊角が怪訝そうな声を出す。心配するなと笑ってやると、伊角もはにかむように笑い返してきた。信頼を寄せてくれているらしいその笑顔に、先程の趙石の皮肉げな台詞が蘇る。 ―――ワザトデショ? (―――そうかもな…) 杯を傾ける自分の姿を見て、伊角が酒を飲みたいと言い出す確率は、五分だった。『甘いハーブ酒』と表現することで、甘党らしい彼が抵抗なく青酒を飲む確率も、五分だった。それは、酔ってくれればいいな、という程度の、ほんのささやかな出来心に過ぎなかったのだけれど。 (それで…?酔わせて、酔いつぶれさせて……オレは一体、何をするつもりだったんだ?) いくら考えても、楊海の中にそのことに対する答えは出てこなかった。或いは、初めから考えてもいなかったことなのかもしれない。自らの想いを自戒する彼の気持ちは、余りにも強いものだったから。 そうしてそんな自分に、楊海は自嘲気味な笑みを漏らす。相反する自らの感情は、とっくに収拾のつかないものになっていて、楊海をどこまでも追い詰める。触れたい、触れられない。愛しい、告げられない。自分だけのものにしたい、叶わない…。伊角のことを想えば想うほど、彼の将来を考えれば考えるほど、どちらの感情も強くなっていく。もう、どうしようもなかった。昨日とて、抱いてしまうつもりではなかったのだ。後悔することが、分かっていたから。それなのに伊角の純粋な瞳は、暗闇に差し込んだ一筋の光のように楊海の心の行方を指し示す。惑う心を無理矢理に掴んで、此方に来いと懇願してくる。そんな不埒なおねだりに、初めから楊海が逆らえる筈もなく。 楊海は、苦笑いを隠して伊角の方を見た。嬉しそうに見つめ返してくる、昨夜楊海の身体に泣いて縋った綺麗な顔。少しだけ面映さをのせた幸福そうな笑みに、鼻の奥がつんとした。泣き出したいくらいに、こんなにも、彼のことだけが愛しい。 「伊角君、部屋に戻ろうか。もう君も辛いだろ」 「はい、あ…でも……」 勉強しないと、と名残惜しげな伊角の様子に、楊海は堪らず破顔した。全く、一体どこまで囲碁馬鹿なのだろうか。そんなひたむきさすら愛しくて、楊海は伊角の前に手を差し出した。掴まれ、という意思表示に、伊角がその手を取って立ち上がる。 「部屋で打ってあげるよ。今日はいつもより多めに。それならいいだろ?」 「え、あ、はいっ」 身体を支えてやりながら言った台詞に、伊角は弾かれたように満面の笑みになった。罪のない、その瑞々しい透明さ。いくらなんでも昨日の今日でケダモノになるのは伊角に負担をかけてしまうと、楊海は必死に自分に言い聞かせる。そんな楊海の葛藤も知らず、伊角は誰にも聞こえないほどの声で、今日は一緒に寝れるんですか?などと上目遣いで訊いてきた。 身体は辛くてふらふらな筈なのに、蕩けるような表情でそんなことを言うのだから堪らない。二人で訓練室を出る瞬間、視界の端に一瞬映った趙石の顔が、何かを含むように笑っていた。 ―――ワザトデショ? (―――ああ、わざとだろうさ) わざとで悪いかと、殆ど自棄のように毒づいて見せる。わざとで悪いか。好きなものは好きなのだ。やってしまったことはしょうがないじゃないか。 伊角は、早く早くと引っ張りかねない勢いで楊海を促す。これ以上ないほど嬉しそうなその様子に自制のタガが外れかける音を聞きながら、ああもうどうにかしてくれと、楊海は信じてもいない神の名前を呼んだ。 「伊角君、あんまり慌てると、ころ……」 「わあっ!!」 転ぶよ、と言おうとした矢先に、階段につまずいてよろめく伊角の姿が見える。溜め息を一つ吐いて、楊海はマイナスの思考を頭から締め出しにかかった。 好きなものは好きなのだ。やってしまったことは、しょうがないじゃないか。 定時を告げる時計の音が、柔らかに鼓膜を震わせる。 そうして再び日常が、二人の間で動き出すのだ。 END |