マ ヨ イ ガ

「ねぇアイツ、結構イイ線いってない?」
高い高い木のてっぺん。
体重を感じさせることなく細い枝の上に立つ、黒装束を纏った隣の人物に声をかけた。
この人のイメージは漆黒。
無造作に撫でつけられた髪も、鋭い光を放つ切れ長の瞳も、装束の背中から生えた大空を覆い隠すような翼も。
何もかも、この人がまとう色といえば全てそれだけだ。
「・・・・・・ああ、おまえの相手も出来そうだな」
「そぉ?」
「やってみたいんなら山から降りろ」
もしかして、と思ったことを口に出されて、その人を窺った。
「俺は降りないよ?」
「対戦、したいんだろう?」
「それは違うよ。ただ上手いよねっていう話」
「やってみたいんじゃないのか?」
「あのさぁ東方」
ちいさく溜め息を吐くようにその人の名前を口にした。
名を呼ぶことを許されてるのは俺だけ。眇められた視線が俺のほうをちらりと見る。
重なる前に何もなかったみたいに逸らされて、ちいさく苦笑した。
「俺は山から降りないよ」
「・・・・・・それはおまえの勝手だ」
「うん。だから、俺は降りない」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺はさー東方とずっと一緒に居たいもん」
だから俺が山を降りることはないよ?背中を向けてしまった東方にそう呟く。
風がさぁっと吹いて前髪を揺らした。目を閉じて同じように揺れる東方の翼へと腕を伸ばす。
さらりとした感触に思わず頬が緩む。
名前と一緒で翼に触れるのは俺だけの特権。

もう二年ほど前になるだろうか。
俺は中学の部活中、山の、とある場所で足を滑らせた。
足腰を鍛えるという名目で学校の裏手にある、この山吹と呼ばれる山を走らされたのだ。
その途中、突風で足を滑らせた俺は斜面を滑り落ち、崖っぷちまで転げ落ちた。
伸びた枝先を掴もうとしたけれど届かなくて。
ああ、もうダメだ。
そう観念した瞬間、俺の身体はふわりと浮いた。
閉じかけていた目を見開く。
唖然とするというのはまさにこういう事なんだろうなと思いながら、まじまじと周りを見た。
崖から見えた滝の流れもそのまま。
風で揺れる木々や葉もそのまま。
ただ俺だけが空中に浮いていた。いや正確には俺だけじゃなかった。
俺の視線の先にいたのは腕組みをして不機嫌そうに俺を見詰めた、あるヒト。
いや「ヒト」というべきなのかはわからない。
だって、そのヒトの背中には大きな翼があったから。ばさりばさりと空を仰ぐ音。
真っ黒づくめのそのヒトはゆるく翼を動かしながら俺に近づいてきた。
「・・・生きたいか」
耳に届いた重低音の声音。
どきりと心臓が跳ねた。虚ろ気味だった視線を向けると目があって、また心臓が跳ねて。
「生きたいか?」
もう一度問いかけられて、考えもせず頷いた。
すると、そのヒトは明らかに不機嫌そうな顔をして俺の顔を見下ろした。
「おまえはこのまま死ぬ運命にある。それを曲げるのであれば、ただでは帰せない」
「?」
「生きたいのであれば、この山吹の頂で俺と暮らすことになる。それが嫌ならば、このまま滝壷に飲み込まれ自然に還ることになる」
「・・・・・・え」
「おまえは死ぬ運命にある。生きて死を選ぶか、死して生を選ぶか。ふたつにひとつ」
耳に届いた言葉を噛み砕く。
つまり。
生きたいと願えば、このヒトのそばにいることが出来るということ?
死んでしまうということを体感したせいなのか、感覚が麻痺してしまったみたいで他に考えるべき事柄はあるはずなのに、その時の俺の脳内は目の前のそのヒトのことだけでいっぱいだった。
一も二もなく頷いた俺を見て、苦虫を噛み潰したかのような不機嫌そうな顔でそのヒトは溜め息を吐いた。

それから二年。
俺はずっとこの山吹の頂で暮らしている。
深い緑に覆われた山中はとても人の足では入れたものではない。獣道さえない山奥ではそれも当たり前の事なんだろうけれど。
友達と呼べる人もいず話す人さえもいない、この頂で。
山吹を護る「天狗」の東方と。
「俺はね、街に帰ることを諦めたとか戻りたいのを隠してる訳じゃないよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「ただ東方と一緒に居たいだけなんだ。例え街並みが変わろうとも、知ってた奴等が年齢を重ねて居なくなってしまっても」
「歳も重ねず誰一人として知る者が居なくなってもか?」
「うん。東方と居れるんなら俺は構わない」
背中から抱きついた格好のまま言葉を紡いだ。
半年くらい前。
俺が足を滑らし、発端となったあの事件を仕組んだのが実は東方だというのがわかった。
ホンの出来心だったという話で東方は俺に頭を下げた。
自分の護る山吹の山中を勝手知ったる顔で騒ぎながら走る人間たちが気に喰わなかったらしい。
さっさと帰れと団扇で扇いだところ、暴風にたまたま俺が足を滑らせてしまったという訳だ。
勿論、顛末を聞いた時には流石に言葉をなくした。
けれど。
それは怒りだとかじゃなかった。
自分のせいだと東方は掟を破ってまで俺を助けてくれた、その事がわかったから俺は東方を恨むなんてこと考えもしなかった。
だけど当の東方が俺を事あるごとに下界へ帰そうとするようになった。
当然、俺が山を降りれば俺は死んでしまう。
元が誰のせいであっても俺があの時死んでしまう事実は変えられない筈だった。
なのに俺は死ななかった。それは偏に東方が山の掟を破り、俺に生命を分け与えてくれたから。
俺だって死にたくはない。
だけど、それだけが山を降りない理由じゃない。
俺が山を降りれば、俺は死ぬ。
そして俺に自分の生命を分け与えた東方も半身となってしまった俺が死ねば土に還るというのだ。そんなの冗談じゃない。
「俺は東方が好き。だから一緒にいたい」
「・・・・・・千石」
「東方は俺のこと好き?・・・ううん、好きじゃなくてもいい。嫌いじゃなければそれでいいから、俺を傍に置いて?」
「・・・・・・・・・・・・」
くっついた背を覆う大きな羽がさわりさわりと風に揺れる。
頬を撫でるその感触が涙を誘う。
身体は重ねても心までは重ねてくれないから。
好きだとか好意を表す言葉さえも音にはしてくれない東方に不安を持っていることも本当。
俺は好きだから一緒に居たいのに。
このまま、この姿のまま悠久の時間を刻んだとしても俺は構わないのに。
離れようとする東方の気持ちが見えなくて、怖くて仕方がなかった。
後悔や慙愧の念ばかりで俺のことなんかどうでもいいのかもしれない、そう思うことは簡単すぎて。
遠い山の頂に視線を向けたまま東方は黙りこんでしまった。
それが答えだと言われているようで気持ちが真っ黒くなる。
俯いた拍子にいつの間にか浮かんだ涙がぽろりとこぼれそうになって慌てて歯を食いしばった。
もしこのまま別れなきゃいけないとしても最後の最後で格好悪いとこなんて見せたくなかった。
俺の最後の顔を笑顔で覚えていて欲しかった。
抱き締めていた手をゆっくりと離した。
離そうとした。
「本当にそれで構わないのか?」
「え」
引っ込めようとした俺の手を大きくて温かい手が掴んだ。
肩越しに振り返った東方の眇めた視線と目が合う。
「山を降りれば、おまえは自由だ。転生し新たな人として生きていくことも可能なんだぞ?」
「でもそれは東方のこと忘れるってことでしょ?もう会えないってことでしょ?」
「そういう事になる」
「なら俺はこのままがいい。土に還ることはなくても「人」じゃなくなっても東方の傍がいい」
潤んだ瞳を隠すことは出来なくて。
でも視線を逸らすことなく言い切った俺に東方は呆れたようにちいさく笑った。
随分と久しぶりに見るその笑顔にどきりとした。
初めて東方と会った時のことを思い出す。
「そこまで言うのなら俺の傍で永遠の刻を生きろ。二度と俺から離れることは出来ないぞ?それでも構わないんだろう?」
「うん」
こくりと頷いた俺を見て、もう一度。
今度はほっとしたような柔らかな顔で東方は微笑んだ。
「ならば俺は生涯、この大いなる山吹の山とおまえを護ろう」
ゆっくりと伸びてきた腕に俺は誘われるように東方の腕の中へと抱き込まれた。
柔らかい生地の感触と温かな体温。
背中に回された腕の力強さに愛しさが溢れて、俺は少しだけ泣いた。
あやすように背中を撫でる手の動きと軽くはばたいた翼の音にいつしか眠りに誘われた。
「帰ろう。俺たちの「家」へ」
うんと返事をした時には半分、夢の中。
愛しむように抱きかかえられた俺は幸せな顔をしていたと後から聞かされた。

攫ったのはアナタ。
攫わざるを得なかったのはアナタ。
でも、あの時。
このまま攫って欲しいと思ったのは俺だから。
アナタと一緒に俺も山吹の住人になるよ。
これからはずっと一緒だから。