屋 上

目の前には、もうすぐ夏だというのに薄く刷いたような雲が浮かぶ青空。
ふだんは鍵がかけられたままの屋上は少々埃っぽい。
それでもいつの間にか自分たちの指定席になってしまった階段室の影はそんな埃も消えて、ごろんと仰向けに寝転んでいても白ランが汚れることもなくなった。
「何してんだ」
感情のこもらない声が空のほうから降ってきた。
軽く閉じていた目を開けるとそこには先ほどの声と変わらない、表情のない亜久津の姿。
「んー・・・さぼり?」
頭の後ろで組んでいた手を解いて大の字の形にだらんと腕を放り出す。
そのまま南はまた目を閉じた。
「夏風邪ひいたっぽくてさ」
保健室に行くのがめんどくさくてココで休んでたんだ。そう亜久津に聞かせるでもなく独り言のように呟く。
使われることのない屋上には何も置いてなくて、影があるといったら階段室の横しかない。
亜久津は南の投げ出された腕をさけ、空いた場所へと腰をおろす。
「ああ悪ぃ。腕、邪魔?」
「・・・・・・」
薄く目を開けた南がぽつりと問いかけるが亜久津からの返事はない。
否定とも肯定とも取れないそれを無視すると南の目はまた閉じられた。
何もない屋上。
ややあって亜久津のポケットから取り出された煙草に火がつけられる音だけが響く。
最後の1本だったのか赤マルのソフトパックが握り潰される音。
愛用のジッポのライターで火をつける音。
吸いこまれた空気とともにゆっくりと先端へ火が広がっていく。
片膝を立てた恰好で座る亜久津は、慣れた仕草で煙草をくわえる。
「なんだ」
視線はすぅーっと細く吐き出された煙の先を向いたまま、亜久津が訊く。
すこし顔を傾げ、いつの間にか開いていた南の目がじっと無言で煙草を吸う亜久津へと注がれていた。
「あ。ばれてた?」
「・・・・・・」
「やー煙草ってそんなに美味いのかなーって」
「・・・・・・美味くねーよ」
「そ?」
何やら苦々しげに答える亜久津を見やった南がちいさく笑う。
はじめて、ふたりですごす屋上。
いつもならうざったいくらいとしか表現できないような千石がいて、3人だったり。
それに加えて、千石に引き摺られて連れてこられる無口は無口だがそれなりには喋る東方と4人でいることが多い。
千石はたまにさぼって嫌がる亜久津のそばで過ごすこともあるらしいが南は、はじめて亜久津とふたりで屋上にいる。
いつもの南なら。
怖がるとまではいかなくともどこか一線を引いたような雰囲気なのに。
「亜久津は煙草、吸うの似合ってるよなー」
こんな近くで、笑っている。
「おい」
「んー?」
「てめぇどっか・・・」
「あ。うん、熱あるんだわ。結構キツいかも」
「・・・・・・」
にへらと笑う南に亜久津は視線だけで見下ろして。
「なーなー。煙草ちょっと吸わして?」
「あ?」
「煙草。こういう時じゃないと言い出すこともないしさ」
人事のように言う南がじっと亜久津を見上げる。
ゆるゆると合わされた手で拝む真似をする南の目が熱で潤んでるように見えた。
親指と人差し指ではさまれた煙草がゆっくりと南の口へと運ばれる。
「おーサンキュ」
一瞬、躊躇ったあと南がちいさく吸い込む。
とたんにごほごほ、とむせこんで片手で体を起こした。涙目になった南を亜久津が見やる。
「てめーには似合わねぇな」
目を眇めて亜久津がぼそりと呟く。そのまま煙草は亜久津の口へと戻る。
「あーかもなー。こんなにキツいもんだとは思わなかったわ」
まだ、けへけへと咳き込みながら目にたまった涙を指ではじく。
「けどさ。やっぱ試してみたかったんだよ、なんとなくだけど」
「そーかよ」
「うん・・・なんか匂いとか憧れてたっつーか」
いつになく饒舌な南をじっと見ていた亜久津の口の端が気持ち上がったような気がした。
南が「ん?」と首を傾げたところに影が被さる。
「・・・・・・あ、くつ?」
「だったら匂いだけでも試してみるか?」
「え」
言われた途端。
うなじに近いところの髪を掴まれ、ぐいっと亜久津のほうへと南は引き寄せられた。
ふわりと煙草の匂いがしたと思ったら。
「――!」
温かい皮膚の感触。
ゆっくりと、普段の彼からは想像できないような優しいキス。
見開かれた南の目に映るのは、どこか楽しそうな色をした亜久津の瞳。
突然のことで展開についていけなかった南は亜久津の顔がいつ離れたのかさえわからなくて。
呆然としたままの南に亜久津がちいさく笑う。
「・・・んなに良かったかよ?」
くっと喉の奥で笑われて、そこではじめて南の意識がたどりついた。
口元を手で覆った南の頬にかっと朱が広がる。

――やべ。熱、上がったかも。

それがどうしてなんだと考える前に南の意識は途切れ、残された亜久津が珍しく慌てた表情をしたのを見ることはなかった。