紫陽花の詩


ふと窓に目を向けると先程まで降っていた雨が上がっていた。
ザァザァ降りが嘘のように雲の間からは太陽の光まで。
読んでいた本を机に置くと窓へと寄り、やや湿ったような音をさせて窓を開ける。
「ちょっと前には上がっていたのか・・・?」
本に夢中になりすぎて気づかなかったらしい。
窓の横。
咲き乱れる紫陽花の花の上にはようようと動くカタツムリ。
ゆるゆる動くその様子を見ていると視線を感じた。窓の桟に頬杖をついていた俺は顔を上げた。
「・・・弦一郎?」
紫陽花の向こうに古い垣根があって、その奥は竹林になっていて近所の者だけが通る細い道があった。
その道の、10メートルほど離れた場所に幼馴染みの姿を見つけ、思わず声が出た。
「蓮二」
「どうした、そんな所で」
声をかけてから「ああ」と思った。
ジャージでも制服でもない、普段着の弦一郎の手には大きな黒い傘とケーキなどが入っている小さな箱。
表情に出ないよう小さく息を吐く。
この幼馴染みという間柄に近い位置にいる男は自分の隙を見せないくせに他人の隙には敏感なのだ。
思わず息を詰めたのが知れたら、どうしたと訊かれるのは目に見えている。
と、そこまで考えて苦笑が洩れそうになった。
ああそうだ。
ただひとり、この男が隙を見せるのはただひとりだけ。我がテニス部部長、彼にだけは笑顔も見せるのだったと今更ながらに思い出す。
半分開けていた窓を全開にする仕草で隠れるように残りを息を吐いた。
大丈夫だ、俺はやれる。
「蓮二」
「どうした。精市のところに行くんじゃないのか?」
「・・・・・・」
「?それなら反対方向だろう?」
苦いものが咽喉元まで込み上げてくる。
視線を彷徨わせた弦一郎の似つかわしくない態度に益々それは酷くなった。
精市のことは俺だとて好きだしプレーヤーとして部長の役につくものとして尊敬もしている。
なのに、その気持ちとは裏腹にどうしようもなく妬ましい嫉妬の心もあって、自分自身が嫌になる。
全てはこの『幼馴染み』の視線が幸村精市その人に向かっているから。
勝手に想っているくせに腹立たしいとは。
「どうしたんだ?」
「・・・・・・いや、俺は」
じゃりっとぬかるんだ土を踏む音がして弦一郎が近づいてくる。
「・・・・・・蓮二、今から時間はあるか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「蓮二?」
「・・・・・・ああ、時間なら大丈夫だ。なんだ精市のところか?それならすぐに支度をするが」
「っ、違う」
「違う?」
紫陽花を隔てて交わされる会話は微妙に噛みあってないようで進まない。
弦一郎もそれに気づいたようでむぅと眉間に皺を寄せた。
視線をふとあらぬ方向へ向けたかと思うと何か思いついたように、ぱっと俺に視線を戻した。
「幸村のところに行くのではない」
「・・・そう、なのか?」
「ああ」
返事と共に弦一郎は頷いてみせた。
ではなんだ?何故、俺の家に来たのだろう?
「・・・・・・なんで幸村の名が出る?」
「・・・・・・弦一郎が」
「俺が?」
「その箱を持っていたから、てっきり精市の病院へ行くのかと」
「・・・・・・ああ」
俺の言葉に成る程と頷いた弦一郎は箱を掲げてみせた。
紫陽花越しに差し出され、つられるように手を出した俺の元にあまり重さを感じない箱がやって来た。
困惑して手元を見詰める俺に弦一郎が口を開いた。
「手土産は持参したんだが」
「うん?」
「おまえの家に上げて貰っていいか?」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・・・・・・・」
「え」
思わず瞠目した。
紫陽花の向こうに立つ弦一郎も心なし気まずそうな表情になっていて。
そんな弦一郎と手元の箱を見比べた。
なんだ。俺に会いに来たということか?
弦一郎を見ると返事を待っているようでじっと俺を見ていた。目があった瞬間、体温が数度上がったような気がした。
顔に出ない性質で良かったとこの時ほど思ったことはない。
窓を閉めるため手をかけた。
「構わない。玄関に回ってくれ」
「ああ」
「じゃあ」
からりと閉めるとすり硝子が嵌め込まれた窓は弦一郎の姿を隠してくれた。
ほぅっと息をつくと手にしていた箱へと視線を落とした。
知らず笑みが浮かんで、玄関につくまでに頬を引き締めるのが辛かった。
「上がってくれ」
「すまない」
「いや。ああ、今誰も居ないんだ。茶は入れるが味には期待するなよ?」
靴を脱いだ弦一郎が、その俺の言葉を聞いて浮かべた笑みの意味を知るのは一時間後の話だ。