ボクの心と夏の青空


「あー暑いー溶けるー」


何度目かわからない千石の締まらない台詞に東方と南が眉を跳ね上げる。
「誰たちのせいだと思ってるんだ!」
南がデッキブラシをぶんと振り回した。
遠心力で飛んでいく水飛沫が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。
「・・・手伝いが要らないんなら、すぐにでも帰るぞ」
ぼそりと呟かれた東方の言葉に千石が顔色を変えた。
「わーめんごめんご!ちゃんとするから!」
「「だったら手を動かせ!」」
東方と南の地を這うような声に千石が慌てて「ほら!」とデッキブラシを忙しく動かせてみせた。
しゃっしゃっと水を弾く音が響く。
無言で千石と同じように手だけを動かしている東方と南のオーラが凄まじい。



1学期の終業式のこの日。
ひと気のだいぶなくなった廊下で、いつものように些細なことから亜久津と千石の小競り合いが始まって。
暑いのが苦手らしい亜久津が早々にキレて、さして広くもない廊下は格闘技場へと化してしまった。回し蹴りをかました亜久津の長い足は千石の動体視力によって見切られ、すっと身を屈め交わされた。
そこまでは良かったのだが。
突然廊下の角から現れた騒ぎを聞きつけた南と東方に驚いた亜久津の足が遠心力そのままに廊下の窓ガラスへと叩きつけられてしまった。
一瞬で静まり返る廊下。
その直後、騒ぎを聞きつけた先生方からキツイお叱りを受け、テニス部顧問の伴田からありがたいことに罰としてプールの掃除を請け賜った。
たまたま居合わせた、と言うより止めに来た南と東方も一連托生ということでお目付け役代わりに手伝うよう申し渡されたと言うわけだ。
踏んだり蹴ったりとはまさにこの事だ、と言わんばかりの事態に南と東方の機嫌も下降するなというのがもっともで。
掃除をはじめて30分。
喋る人間もおらず、沈黙がプールに貯まっているようだった。
それに耐えられなくなった千石が思い出したようにポツリと呟き、冒頭のところへと話は繋がる。



「あー・・・あのね?ホントに悪気はなかったんだよ?」
しゃこしゃこと軽快な音を立てながら千石が横目で東方と南のほうを窺う。
遠目にも目が据わっていることがわかるくらい不機嫌さが絶調なふたりは、黙々と手を動かし千石には一瞥もくれない。
「ふたりまで巻き込んじゃって本当に悪かったと思ってるし!」
「「・・・・・・・・・・・・」」
「わーごめんなさいーってばー!」
「「・・・・・・・・・・・・」」
「・・・・・・ごめんなさい
「「――・・・・・・ごめん、で済めば警察いらないよなー」」
ぼそりと地を這うような声で呟かれ、千石としては俯くしかない。
なんやかやと騒ぎを起こしている千石もここまで東方と南を怒らせてしまった記憶はなく、どう謝っていいものやら見当がつかなくて困り果てていた。
ふ・・・と息をついて顔を上げる。
「!」
げ。何やってんですか、あの人は!
視線の先にいるのは騒ぎの張本人の片割れである、亜久津。
同じように持っていたデッキブラシの柄のてっぺんに腕をかけ、撒き散らしていたホースを片手に気だるそうに煙草を燻らせている。
めずらしくぼんやりとした表情でフェンスの向こうに広がる街並みを見詰めてなんかしてたりして。
やばいと思った時にはもう遅かった。
同じように顔を上げた南の視線が亜久津を捕らえた。


「・・・・・・・・・・・・」


うわ。無言ですか。千石の脳内にスクランブルが響き始める。
無言のままじっと目を眇めて亜久津を見やる南の顔から表情が消えたのを見て取って、千石は思わず息を呑んだ。
両手で持っていたデッキブラシの柄を片手に持ち直すと、南は身体の向きを変え、それを引き摺ったまま亜久津への元と歩いていく。
その光景を固唾を飲んで見詰めていた千石は糸が切れたように慌てて東方のところへと走り寄った。
「なんだ。ちゃんとや――・・・どうした?」
水の跳ねる音に気づいて顔を上げた東方が眉間にしわを寄せて千石を見やったが千石の慌てた表情に気づいて怪訝な面持ちになる。
上目遣いに東方を見上げて、そーっと南と亜久津のほうを指差す。
千石の指先をたどって視線を動かした東方の顔が強張った。
「!――亜久津、避けろっ!」
尋常でない東方の声に亜久津が振り返った。
と、同時にヒュッと亜久津の頬のあたりを何かが掠め、ガツン!と派手な音が足元で響いた。空手で鍛えていたおかげか咄嗟の判断で身体を1歩分引いた。それが良かったらしい。
音の発生源に目を止め、亜久津が唖然と見下ろした。
そこにあったのは強い力で打ち下ろされたデッキブラシ。かなりの力で叩きつけたらしく打ち付けられたところは塗装がはげ、下地のコンクリートが見えている。
唖然としたままの亜久津のそばで、それを目を眇めたまま面白なくそうに見たのは南。
「な・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
さすがの亜久津も展開についていけてないのか言葉を詰まらせる。
南はといえば、表情を無くしたままで打ちつけたデッキブラシをひょいと持ち上げた。
そしてそのまま。
もう一度目の前の亜久津へと振り下ろす。
力の加減がないことが容易に見て取れるその行動に慌てたのは、デッキブラシを振り下ろされた亜久津だけじゃなく東方と千石も同じで。
自分の手にあるそれを放り出すと南へと駆け寄った。
寸でのところで避けた亜久津が呆けたように南を見詰める。
「なんで避けんだよ」
顔と同じで抑揚のない声で南が呟く。
「・・・いや、避けるだろフツー」
「避けんな」
「なっおい、南!?」
もう一度振り上げたところで背後から東方に羽交い絞めされ、千石が南の手からデッキブラシをもぎ取った。
「ちょっと南、落ち着けって!」
「南」
東方と千石が宥めるように声をかけるが南の表情は戻らない。
この焼けつくような太陽の熱さのせいなのか、かなりキレてしまったらしい南の様子に東方と千石が顔を見合わせた。


「なんなんだよ、テメーは」
やっと顔色が戻った亜久津が南に詰め寄る。
こんなことをされても掴みかかっても殴ろうとはしない亜久津は心の底から南に惚れているらしい。
目を細めて亜久津を見据えている南は喋ろうとしない。
「南」
亜久津はやや首を傾げ、窺うように南へ手を伸ばした。その亜久津の手が南の頬に触れようとしたその時。
パシッという鋭い音とともに弾かれた。
「!」
黙ってやり取りを見詰めていた東方と千石が息を呑む。
はたかれて赤くなった自分の手を握り締め、亜久津が南へと近づいた。
「南?」
「・・・・・・・・・・・・んだよ
「ああ?」
「・・・・・・喧嘩するなって、いっつも言ってるだろ!」


「喧嘩が強いとか弱いとか、そういうこと言ってんじゃねーよ。
いくら喧嘩強くたって、負ける時もあれば怪我することだってあるだろ!?
亜久津は怪我しても「痛い」なんていうこと一度も言わないけど、見てる俺は・・・痛いし、辛いんだよ!
さっきのことだって、いくら制服着てるからって怪我する時はするだろ!?
たまたま今回はかすり傷くらいで済んだけど大怪我してたって可笑しくないんだからな・・・・・・なのに、おまえは・・・・・・」


一息にそこまで言うと南はぼろぼろと涙を流し始めた。
次から次へと溢れてくる涙は頬を伝い、ぱたぱたっとコンクリートの上へ音をたてて落ちる。
溢れる涙を拭うこともせず、南は亜久津をきっと睨んでいる。
「南・・・」
眉間にきつくしわを寄せた亜久津が南の頬と手を伸ばす。
今度は南も大人しく触らせた。
亜久津の日に焼けていない指が音もなく頬を伝って落ちていく涙をすくう。
「南」
視線が絡み合う。


「・・・さっき、ガラスが割れた時・・・心臓止まるかと思った!」


その絞り出したような掠れた南の呟きが亜久津へ届く。
箍が外れたように涙が溢れ出す。嗚咽を誤魔化すように俯いた南の肩が震え出して、堪えるように南はぎゅっと拳を握った。
きつく眉間にしわを寄せていた亜久津が南をそっと抱き寄せた。
背中に回した両腕に力をこめ、ぽんぽんと宥めるように優しく叩くと、南の強張っていた身体がやっと力を抜いたのがわかり、亜久津もほっと息をつく。
だいぶ落ち着いてきたのがわかると南の手を取り、顔を覗き込んだ。
「・・・あ、くつ・・・」
まだぽろぽろと涙を流す南を見やって亜久津が苦笑をもらす。
一度壊れてしまった堰はそう簡単に直るものでもないらしい。空いた片方の手で涙を拭いてやるが次から次へと溢れてくるそれには追いつかない。
ちいさく息を吐いた亜久津に気づいて、南が濡れた瞳でじっと見詰める。


「悪かった」


一瞬何が起こったのかわからなかった。
南はきょとんと亜久津を見やったまま。
亜久津はもう一度息を吐くと南へと視線を合わせた。
「悪かったな、南」
心配かけた。亜久津がかすかに頭を下げ、そう告げたのを呆然と南は見詰めた。
「南?」
しばらく経っても固まったままの南に亜久津が怪訝な視線を向けた。
「・・・・・・・・・・・・」
「あ?なんだ?」
「・・・・・・びっくりして涙、止まった」
南はぼそりとそう呟いた後、今度はげらげらと笑い出した。
「!?んだよ、南?」
「あはははは、っは――」
笑いすぎて零れた涙を拭いて南が亜久津へ抱きつく。
なおも可笑しそうに笑い続ける最愛の人に他人の面前で抱きつかれた亜久津は目を白黒させている。このまま調子に乗って抱きしめ返してもいいのかどうなのか、判断できず固まった状態のまま南を困ったように見下ろした。


「「あんまり心配かけんなよ」」


お互いのその言葉は心の奥底に。







おまけ。
「お。どうやら元のさやに戻ったみたいだな」
こっそりと離れた場所から南と亜久津のやり取りを眺めていた東方と千石のふたり。
やれやれとため息をついた東方の呟きに千石もほっと胸を撫で下ろす。
「うん、良かったよねーあんなにキレた南、見たの久しぶりだよ」
良かった良かったと頷く千石を東方が横目で見やった。
「で?」
「え?で、って?」
「亜久津ともめた原因。何なんだったんだ?」
「え・・・それは、その・・・」
「何?」
「・・・・・・うん。実はさー今日、南の鎖骨んとこに遠目でもはっきりとわかるくらいの痕ついててね?」
「・・・・・・あー・・・・・・」
「人前で脱ぐ時とか気をつけないとって南に言ったほうがいいよって亜久津に」
「・・・・・・・・・・・・」
「そしたら亜久津に勝手にそんなとこ見てんじゃねーよって逆ギレされたんだよねぇ」
今度は千石がやれやれと息を吐く。
ふたりの視線の先では、もはやいちゃついてるとしか見えない友人ふたりの姿。
なんだか馬鹿らしくなってデッキブラシを放り出すと、梯子を使ってプールから上がる。
晴れ渡った、青い青い空にはこんもりとした入道雲。
「アイスでも買いに行くか」
東方の伸ばした手を掴むと千石が笑って頷いた。