なんでもない日々


それはホントに突然だった。
移動教室のためにクラスの仲の良い数人と連れ立って、次の授業の教室に向かう渡り廊下のところで息を弾ませた千石に呼び止められた。
軽く腰を折り、膝に手をついて息を整える千石をあっけに取られて見下ろす。
試合中でもない限りこんな状態を千石を見るのは、ほとんどない事で。
見れるといっても亜久津をからかって追い掛け回される時ぐらいのものだ。
「千石?」
どうしたんだ、と声をかけようとしたところで千石の後ろに東方がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
脳内でその次から次へと揃っていく箇条書きから、なんか良くないことが起こってるんじゃないかと嫌な予測をたてた自分が毒されてるな、なんてその時は暢気に思った。


「・・・亜久津、留学するかもしれない」


やっと息を整えた千石が見上げるように俺にそう、その台詞を吐いた。
千石がいつもの笑みを浮かべてないだとか亜久津のことを「あっくん」と呼んでないだとか、東方の眉間にはっきりと深い皺が刻まれてるとか。
そんなことに気づけないくらい、呆然と目の前のふたりを見詰めた。



眠い目をこすりつつ学校に行って。
仲のいい連中とくだらないコトばっか喋って。
なんだかんだ言いつつテニス馬鹿ばっかな奴らとコート走り回る。
中学生の俺たちにはそれが当たり前で。
高校に行っても変わんないだろーなーくらいにしか思ってなかった。
だから、千石と東方に告げられた言葉は俺の耳には届いても、その意味までは頭に到達しなかった。
「・・・何、言って――」
この掠れた声は俺のモノなのか。働かない頭はそんなことしか考えられない。
じっと見詰めてくるふたりの視線に息苦しくなる。
「伴田が亜久津にそう話すのを聞いたんだ」
「手塚君にもおんなじ話を持ちかけたって言ってた・・・たぶん、海外」
いつの間にか周りからは人はいなくなってた。
とうに授業は始まってしまったらしい。それでも千石と東方の動く気配はない。
それは俺も同じで。
動こうとしても動けない、まるで金縛りにあったみたいに動けなかった。
「・・・南」
躊躇いがちに名前を呼ばれて、はじめて手を動かせるようになった。
「わり・・・大丈夫、だ」
からからになった唇が気持ち悪い。
ふたりの視線は俺から動かない。気遣う視線が今の俺には棘にも感じられて、かなり余裕がないんだなと思い知らされたりもした。
「・・・南」
「亜久津に、直接・・・聞いてみるよ」
ふっと息をついたのは俺だったのか、千石か東方か。
「亜久津なら屋上に上がっていった」
東方が顎をしゃくってみせた。
千石に背中をぽんぽんと2回叩かれ、俺は鉛のように重く感じる足を動かした。





屋上に出る鉄の扉の前にきて、足を止めた。
授業中なのに、先生に見つかるかもしれないなんて思いもせずに走る勢いでここまでやって来た。
もしも、亜久津が。
ふと考えた。それまではどうもなかった手が途端に震え出した。
震える両手を合わせて口元に持っていって、そこで全身が震えていることに気づいた。
「・・・どうすんだよ」
誰に聞かせるでもないひとり言が乾いた唇から漏れる。


青学の越前との試合を終えた亜久津はテニスコートにはもう立たないと言った。
太一をはじめとする関係者の中からは勿体無いという言葉もあった。他の人間と比べてプレイスタイルや態度の違いはあれど、一流と言えるその才能を埋もれさせるのは確かに勿体無いとは自分も思った。
けれど亜久津がテニスを続けないと言い出した時、それも有りだと思ったのも事実。
「テニスは楽しく」それが山吹中男子テニス部監督の伴田先生の言葉。
俺はその言葉が好きだ。確かに苦しいこともあるけれど、テニスは楽しいと言い切れる。今まで一緒に頑張っていたテニス部の皆もそれは同じだと思う。
だけど俺はそうだとしても、それを他人に押し付けるつもりはなくて。他に何がしたいからテニスから離れるんだという訳でもない亜久津にも俺はそう考えた。
だからこそ、もし仮に。
亜久津がテニスを続けるために海外留学するんだと言ったとしても俺は止めるつもりもない。
亜久津がいなくなる。その事には恥も外聞もなく泣き喚いてしまいたいほど怖いものまた事実で。いなくなった後、ひとり残されることを考えると全身が震えてしまうほどだとしても俺が、俺こそが止めることはしちゃいけないんだ。
ふっと息をつく。


――俺は大丈夫。
まだ微かに震える手を握り締めて、鉄の扉を押し開けた。



今まで薄暗かったせいか扉を開けた途端、刺し貫くような日差しが視界いっぱいに広がって。
目が慣れるまでにしばらくかかった。
「よぉ南じゃねーの」
それを見越したように声がかかる。
「・・・亜久津」
「んだよ。サボらねーつったの誰だよ?」
煙草を咥えた亜久津が片眉をあげて、こちらに視線だけを向ける。
片膝を立て、だらしなく足を投げ出して座っている亜久津の横には放り投げられたように散らばる大きな封筒と鮮やかなパンフレットたち。
ああ、やっぱり本当だったんだ・・・とそれらを眺める。
どう切り出したもんかと考えつつ、亜久津に歩み寄った。
なんでもないような顔をして無造作に放り出されたパンフレットを一冊取り上げた。
薄いそれはパラパラとめくるとすぐに終わってしまう。
見開きに使われた大きな写真が目に飛び込む。意識ごと奪われるような鮮やかで抜けるような青空。
「こういうとこでテニスしたら気持ちいいだろうな」
青が深く澄み渡ったようなその青空の写真に指を這わせた。口にするつもりのなかったちいさな言葉は亜久津にしっかりと聞こえたようで、はっと鼻で笑う声が聞こえた。
「俺に行けってか?」
亜久津が煙草を咥えたまま顔に表情をのせず、俺を見上げる。
海外留学の話が出た、とかそんな事をわざわざ亜久津は言わない。
その話を俺が知ってても亜久津は不思議に思わない。
「行くのか?」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
さっきまで震えていた手も今は揺れもせずパンフレットを掴んでる。
結構なんとかなるもんだな、と他人事のように思った俺の腕を亜久津が掴んで、くいっと引っ張られた。
たいして力の入ってなかった筈なのに、俺は崩れるように倒れこんだ。
倒れた先は亜久津の投げ出した長い足の間。
両腕で抱え込まれるようにて胸に抱きしめられた。
「俺に行けってか、南」
繰り返される言葉に俺はどうとも答えようがない。黙りこんだ俺はおとなしく亜久津の腕の中に収まった。
こうやって過ごすのも、もしかしたらあと僅かかもしれない。
「・・・亜久津はどうしたいんだ・・・?」
この抱きしめる腕が答えなのか?
そんな事を考えた俺は涙腺が緩んだのに気づく。
慌てて亜久津の胸に顔を押し付けた。気づかれたらお終いだ、そんな気がする。
と、亜久津がさも可笑しそうに笑い始めた。
くつくつと肩を震わせる亜久津に吃驚して顔を上げようとしたが、逆にきつく抱き込まれてしまう。
「あ、亜久津?」
どうにか確保した隙間から亜久津の名前を呼ぶ。
「バカだろ、てめぇは」
「なっ!」
やっぱバカだ、と笑い続ける亜久津。
そのせいか緩んだ腕を押しのけるようにして顔を上げた俺を亜久津が覗き込むようにして見下ろした。
笑いすぎたせいなのかうっすらと涙の浮かんだ色素の薄い瞳が間近にあって、何度も身体を合わせているにもかかわらず、ドキッとしてしまう自分。
いや、そんな場合じゃないだろ俺!
「亜久津ってば!」
「あー、ったく南といると飽きねーわ」
「・・・・・・」
「俺はもうコートに立たねーって言ったよな?」
「けど、それとこれとは――」
「違わねーよ。ホント馬鹿な?」
しみじみとした口調の亜久津。
「ったく。これぐれーで泣きそーな顔してんじゃねーよ」
「!」
バレてた?どきまぎしてる俺のこめかみにキスすると亜久津はもう一度、両腕の中へと抱き込まれた。
俺の耳元へ顔を寄せると亜久津が呟いた。


「俺は行かねーよ」
離れねぇつっただろ?とふだんとは違う優しい声で言われて、またもや涙腺の緩んだ俺は亜久津の胸に顔をこすりつけた。
亜久津は行かないと言った。
それが間違ってるとか正しいとかは俺にはわからない。でも亜久津が行かないと言ってくれたのが嬉しくて嬉しくて、どうにかなりそうだった。
たった一言で浮上させてくれる亜久津の存在が本当に自分には大事なんだと改めて思う。そして、それは亜久津にも一緒で。
泣きたいくらい喜びを感じるその事に俺は何処かにいるであろう神様にお礼を言いたくなった。
亜久津と会わせてくれて、ありがとう。
ちいさく笑った俺に亜久津の唇が優しく降ってきた。



眠い目をこすりつつ学校に行って。
仲のいい連中とくだらないコトばっか喋って。
なんだかんだ言いつつテニス馬鹿ばっかな仲間とコート走り回る。
大切な奴らと過ごすなんでもない時間。
それが当たり前の毎日。
大事な愛しい人間と肌を合わせるのも日常になって、恋愛も捨てたもんじゃないなとか一人前に思ってみたりして。
何が正しいとかそうじゃないとか、まだ判断できないことも多いけれど。
これから歩いていくこの「道」をずっと一緒に進んでいけたらいいなーとか考える毎日。


俺の隣には亜久津がいて、亜久津の隣には俺がいる。
これって結構すごいことじゃね?