君の向こう側

「アイツいるよな〜?」
どうしてもわからない英語の課題があって、ジャッカルのいる教室へと向かった。
なんで自分じゃどうにもならない問題があった時に限って、当たる日が回ってくるのか。
しかも当たるのがその問題とくれば、誰かに聞かなきゃどうしようもないじゃないか。
誰に訊かれてるワケでもない言い訳を頭の中でこねくり回して。
ジャッカルの教室まで来るとそぉっと中を窺った。
生徒数の多い立海大には帰国子女も多くて、ジャッカルのいる、このクラスもそのひとつでアメリカ系(・・・だったっけか?)の帰国子女クラスだったりする。
廊下でも知らない、聞き取れない言語が飛び交っていて同じ学校の中のはずなのに日本語しか話せない人間にとっては結構な異世界気分で。
通りすがる明らかに人種の違う同級生たちはにこやかに手を振ってくれたり挨拶の言葉を投げかけてくれたりするのだけれど、俺としてはぎくしゃくとした硬い笑顔を返すので精一杯。
こっそりと中を窺った俺はジャッカルを見つけた。
「・・・・・・あ」
やっぱりな。意味もなくそんな事を思う。
ジャッカルは背の高い背中まで届く金髪の女の子とどちらかといえば赤みがかった薄めの金髪の女の子ふたりと話しているところだった。
そう大きな声ではなかったけれど、通りのいい声質のおかげで窓際で話しているのが廊下にいる俺の耳まで届いた。
とはいってもその会話は英語らしく、学校で教わるモノとは比べ物にならない流暢な発音。会話の内容なんてわかるはずもない。
「・・・・・・・・・・・・」
たった数メートルの距離なのに。
テニスコートで隣に立っている時と今、自分の教室にいる時。
同じ顔で笑ってるはずなのに今見てるジャッカルは知らない誰かのように見えた。
俺の知ってる顔で他に人間に笑うなよ。
ふとわいた気持ちに苦笑したくなった。
ひとりで想いを抱えていた時は目があったり話せるだけで嬉しかった。隣に立てるのが自分で良かった、そう思っていたのに。
願いが叶って、アイツの気持ちを貰えて。
我が儘な俺はひとつ願いが叶えば、次から次へと階段を上がるように願いも増えていって。
自分だけを見ていて。
俺だけに笑って。
そんなこと無理だとわかってて、でも思うことは止められない。
明るい窓際でクラスメイトたちと話すジャッカルは言葉どおり『爽やか』過ぎて、穏やかに笑っている顔を見てたら、いかに自分が邪だといわれているようで。
手にしていたノートをぎゅっと握りしめた。
あの中に入っていくのは簡単な事だ。このドアの影から顔を出して何でもないように「この英訳、教えてくんねぇ?」そう聞けばいい。
そうしたらジャッカルは俺を見てくれる。
体が動かない。
動かせない。
なんでそんな顔で笑うの?
それは俺に見せてくれる、俺だけに向けられるはずの笑顔なんじゃないの?
ジャッカルは長い金髪の女の子に何事か言われ、嬉しそうに微笑んでいた。
普段は見せない、優しい顔。
ドキリと跳ねた心臓は治まることがなくて。逃げ出したいのに足が動かない。
ひゅっと息を飲んだまま声も出せない。
「ブン太?」
じっと見られてることに気づいたのか、話していたジャッカルの顔が俺のほうを向いた。
笑っていた顔が驚いたものに変わって。
これまでに一度か二度あるかないかでしか、この教室に来たことがなかったから純粋に驚いたんだろうと思いはしたのに、その顔を見た瞬間さっきまでドキドキしてた心臓がビクリと跳ねた。
ノートを握り締めていた掌に嫌な感じの汗が浮いて。
「・・・・・・あ、俺」
ジャッカルと話していた金髪の女の子たちも俺を見た。
一言二言何事か話すとジャッカルが俺のほうへ歩いてきて、ドアの敷居越しにジャッカルと顔を合わせることになった。
「どうしたんだ。珍しいな、おまえがココまで来るなんて」
「・・・・・・あーうん、別に何でもないんだけど」
「え。別にって・・・それ、英語のノートだろ?俺に訊きに来たんじゃないのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
不思議そうな顔で訊かれ、俯いた。
いつもジャッカルは優しい。
でもそれは、俺といても俺といてもいなくても変わらないんだろうなと思う。
テニスが関わっていると試合展開のこともあったりして勢いに任せて切り口上や傲慢に見せることもあるけれど、普段は気のいいヤツなのだ。
こうしてテニスコート以外で会えば、汚れた想いにまみれた俺とは違って日の当たる場所が似合う人間。
「ブン太?」
答えない俺にジャッカルが顔を覗き込んだ。
そんな優しい顔するなよ。
そんな優しい声で俺の名前を呼ぶなよ。
なぁジャッカル。俺はおまえのそばにいても構わない?
おまえの気持ちを貰ってても構わない?
「・・・・・・ん、実はわかんないトコあって教えて欲しいんだけど」
「ああ。あ、これか。どうする?クラス入るか?」
「っや、ココで平気」
一瞬言葉に詰まったのがわかったのか、ノートに視線を落としていたジャッカルが顔を上げた。
咄嗟のことで視線を逸らせなかった。気不味い気持ちでジャッカルの視線を受ける。
しばらくの間、覗き込むように俺の目を見ていたジャッカルが小さく息をついた。
「・・・・・・ブン太」
「何」
「ちょっといいか?」
「え。何――・・・・・・!」
一瞬だった。
口の端をホンの少し歪めたのが見えて、心臓がドキンと跳ねた俺は気持ちが違うほうへ向いた。
その隙を見計らったかのようにジャッカルに腕を掴まれて。
ぐいっと力強く引っ張られたかと思うと、瞬きした間に目の前は真っ白になった。
真っ白だと認識したのはジャッカルの制服だった。
腕に抱きこまれていた。
背中に回された、クロスしたジャッカルの腕によってきゅうきゅうと抱きしめられて。
ぽかんとしていた俺は数秒間その体勢のまま。
遠くに聞こえたピュウっという口笛の音に、はっと我に返る。
ここってば廊下じゃん、と思い出した俺は慌ててバタバタし出したがジャッカルの腕はびくともしなくて、益々パニックを起こした。
「・・・・・・ブン太」
「・・・・・・っ」
「ブン太」
「・・・・・・」
「ブン太」
「・・・・・・」
戒めるかのようにジャッカルの腕にまた力が入って、きゅうっと抱き締められた。
耳元で俺だけに聞こえる小さな声で名前を呼ばれて、バタバタしていた俺も徐々に落ち着きを取り戻す。
ねぇ。なんで、そんな優しい声で俺の名前を呼ぶの?
嬉しいはずのその事が胸を掻き毟る。
優しい目が、声が、顔が、腕が、制服の薄い生地越しに感じる体温でさえ欲しいと思っていたモノなのに、いざ目の前に突きつけられると無性に泣きたくなってしまって。
じわりと浮かんできた涙に腹が立った。
ここで泣いてしまえばジャッカルには簡単に気づかれてしまう。
そして泣いた俺を見たらジャッカルは今以上に優しく接して来るはず。
けれど、それは俺の望んでいるものじゃない。
隣に立ちたいと思う。
だからこそ対等な立場で向かい合いたい。
天秤が振れたとしても、どっちにか傾くことはあって欲しくないのだ。
泣くもんかとぎゅっと口唇を噛み締めた。
「なぁブン太?」
「・・・・・・何」
あやすように背中を撫でる、優しい動きに声が詰まった。
切れてしまったのか、噛み締めた口唇に血の味がした。
ジャッカルの制服に血をつけることのないよう、寄せていた頬を浮かせた。少し離れただけなのにすぐそばにあった体温は消えてしまった。
背中を撫でていたジャッカルの手が俺のに重なって、抱きしめられてから初めて視線があった。
「・・・・・・ジャッカル?」
「俺はおまえの隣にいるぞ?」
「え」
「おまえが好きだって言ってくれた時、俺も好きだって言ったよな?」
「・・・・・・うん」
「今もその気持ちは変わってねーよ。俺はおまえが好きだし、一緒にいたいと思ってる」
「・・・・・・うん」
「おまえも同じだと思ってたけどな?」
「っそんなの、俺もそう思ってるよっ!」
それは俺が一番思ってる、考えてる事だ。
けれどジャッカルは言い募ろうとした俺をちいさく苦笑しながら見下ろしてきた。重なったままの手は熱く、激昂したのに頭の芯は冷えてた。
他でもないジャッカルが俺を否定するんだろうか。
「なら、なんであんな顔をしなきゃならない?」
「・・・・・・・・・・・・っ!」
「結局は俺のこと信用してないんだろう?」
「なっなんで、そんな事っっ!」
泣きたかったのは俺。
なのに、どうしてジャッカルのほうが今にも泣き出しそうな顔をして俺を見るんだよ?
表情とは裏腹に、歪めた口の端に薄い笑いが浮いていて、ジャッカルから目が逸らせなくなった。
「俺のこと信じてるんなら、そんな泣きそうな顔して俺を見ることなんてないだろう?」
「!」
「俺が気づいてないとでも思ったか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「おまえが俺を見ててくれるように、俺だっておまえを見てる。これからだってそうだ。俺はおまえの隣にいたいよ、テニスしてる時だけじゃなく、いつだって」
「・・・・・・ジャッカル」
「不安になる事があるんなら俺に直接言えばいい。文句でも愚痴でも悩みでも、何でも。おまえを創ってる、取り巻いてる全てのものを俺は知りたい」
「・・・・・・うん」
「俺は、」
ふとジャッカルが言いよどむ。
言葉が切られて、気持ち俯いていた俺は顔を上げた。
どことなく苦しそうな何かを抱えているかのような、そんな顔をしてジャッカルは薄く苦笑を浮かべていた。
「俺はおまえが思っているより、おまえのこと好きだ」
「俺だってそうだよ!」
そこまで思ってなきゃここまで汚れた想いを抱えることなんてなかっただろう。
吠えた俺にジャッカルがまた苦笑する。
「引かれるかと思って言えなかったけどな?俺はおまえを独り占めしたくて、どっかに監禁しようかとまで思ったことだってある」
「ええ?」
「他の誰にも触らせたくないし、仲良さそうに話すことや俺じゃない誰かに笑いかけたりするのなんて本当は見たくないんだ」
「ジャッカル・・・」
それこそ俺が思っていたことだ。
この世界に俺たちだけだったなら悩まくてもいいとさえ考えた。
他の奴等がどうでもいい訳じゃない。
ただ、ジャッカルが俺にとっては一番大切で大事な人間だってこと。
「俺も同じこと考えてたよ。けどやっぱそんなこと言っちゃいけないんだと思ってて」
「どうして?」
「どうしてって・・・・・・だって、そんな心の狭いこと言って、おまえウザいとか言われたら俺死ぬよ?」
「・・・・・・・・・・・・馬鹿」
「!」
「やっぱり馬鹿だ。そんなこと言われたら、俺は逆に死ぬほど嬉しいぞ?」
「ええ?」
「現に今、俺は嬉しいけど。おまえは嬉しくなかったか?」
「・・・・・・嬉しい、かも」
「かも、は必要ない。ならいいじゃねーかよ。それで」
「うん」
こつんとジャッカルが額を俺のものへとぶつけてきた。
至近距離で目があって。
しばらく見詰め合っていた俺たちはブフッと吹きだした。
悩んでいた時はこの世の終わりみたいな気持ちだったのに、今はもう馬鹿馬鹿しくて。全てのモノを笑い飛ばしたかった。
「もっと我が儘言ってくれていいぞ?」
「言っていいの?」
「ああ。おまえの我が儘、俺にとっては『好きだ』って言って貰ってるのと同じだから」
「・・・・・・・・・・・・バカ」
照れ臭くて、ちょっと拗ねたような顔をした俺にジャッカルは優しい、嬉しくてたまらないといった顔で笑い返してくれた。

「あ。じゃあさ、早速なんだけど」
「ああ?」
「さっき、あの子達となんか楽しそうっていうか物すげー嬉しそうに笑ってただろ?あれ何話してたんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「ジャッカル!」
「・・・・・・『ジャッカルのステディって本当にあなたの事大好きなのね?見てるとこっちのほうが中てられるわ』だと。『とってもキュートな子よね?可愛いから、こっちのクラスに来ると目つけられてるんだから気をつけなさい』って言われてたんだ」
「・・・・・・・・・・・・マジかよ?」
似合いすぎる動作で肩を竦めてみせたジャッカルに俺も苦笑するしかなかった。
・・・・・・俺、バレバレなの?
ていうかさ。
しかも、それ。ここら辺の野郎どもに狙われてるってことだよな?
視線を感じて首だけ振り返ったら、にやけた顔で手を振ってくる野郎が結構いたりして。
嫌な汗が背中を伝った。
「・・・・・・来てくれるのは嬉しいんだけどな。こういう理由があるからあんましこっちの校舎には来ないほうが俺としても安心なんだけど」
腕の中に抱き込むようにして頭上から降ってきた言葉に一もニもなく頷いたのは言うまでもない。