ひろゆき物語

八年間送り迎えした友情の車イス

―――歩けぬ友とともに五十嵐君・丸藤君―――

友情について語る人は多い、だが、友情とはこういうものだと断言できる人は少ないのではないか。なぜなら、それは生活や人生で出あう人とのふれあいの中から、自然に生まれてくるものだろうから。
八年間という長い歳月、一日も欠かさず足の悪い友につれ添い、こんどそろって高校を卒業したグループにとっても、友情は、ふとしたふれあいで芽ばえ、はぐくまれていったのであった。
山形県酒田市。日本海に面した人口十万人たらずの商業都市。市の周辺は庄内米という良質の米のとれることでも知られ、昔はこの米を大阪方面に積み出す仕事で港はにぎわった。いまでは米は外国からの木材輸入にかわったが、鳥海山をバックにして港に浮かぶ外国船は美しい風景を描き出している。
市の中心から東に十キロ。そこに、山形県酒田北高等学校がある。
三月五日の卒業式の日であった。それまで型通りに卒業生の前途を祝う式辞をのべていた伊藤次郎校長は話題を変え、その日卒業した五十嵐一幸君(十八歳)、丸藤正志君(十八歳)の二人が、足の不自由な佐藤博幸君(十九歳)を小学校五年生のときから毎日連れ添い、きょうの日をむかえ、三人それぞれこれからの人生を求めて社会に羽ばたいていく話を紹介した。
話がまだ終わらないうちになん度も大きな拍手が送られた。ハンカチで目がしらを押さえ、涙をそっとぬぐっている父兄の姿もみられた。

小学校五年生から車イス通学

五十嵐君と丸藤君が佐藤君に連れ添って登下校するようになったのは小学校五年生の春からだ。一歳のときの小児マヒで両足が不自由になった佐藤君は、入学と同時に祖父の和助さん(七十七歳)と自転車で学校に通った。帰りも、授業が終わるころ、教室の外までむかえにきてもらった。
ところがである。四年もまもなく終わろうとしたころ、おじいさんは病気で倒れてしまった。途方に暮れる両親―――。家業の農業がはじまるころは博幸君を通学させる暇などありはしない。
頭を痛めていたとき、
「ボクたちが連れて行くよ」
と申し出たのが五十嵐君と丸藤君だった。二人の家は会社員なのだが、大変さを子どもながらに知っているだけに、だまってみていられなかったのだという。
五年生の春。車いす、といっても実はリヤカーだったが、佐藤君をそのまん中にのせ、前になり後になって家から約千メートルはなれた酒田市立本楯小学校に通う三人づれの姿がみられた。
春がすぎ、夏も終わり、そして秋。
「なかなか感心な子どもたちだ」
「だがどこまでやれるだろう」
やがて冬が来た。車イスはリヤカーからソリに変わった。佐藤君は毛布にくるまり、前後にはあいかわらず五十嵐君と丸藤君の元気な姿がみられた。しかし、東日本の冬はきびしい。日本海を渡ってきた北西の季節風は冷たく、まともに吹きつけたときには息さえつけない。これに雪がまじると土地の人たちは、
「(雪が)下から降ってくる」
と表現するほどすさまじい。
二月のある日もそんな日であった。三人はいつものとおり家を出たが、ソリはいっこうに進まない。手の先からしびれるようにひえてくる。視界は一メートルがやっと。二人でからだを寄せ合うにしても吹きとばされそうだ。
「こんな日には休みたいな」
二人は一瞬こんな考えがひらめいて、ソリをふりかえった。佐藤君はジッと目を閉じ、きょうも学校に行けると安心しきった表情をしていた。二人は、だまってソリを押した。

修学旅行も三人いっしょ

小学校はこうして無事、卒業することができた。
そろって酒田市立鳥海中に進んでからも車イスの姿は毎朝、毎夕みられた。
すばらしい友を得を佐藤君は、しだいに明るくなり、生活も二人とほとんど同じようになった。五十嵐君と丸藤君も佐藤君の足が悪いということはおかまいなしである。
リヤカーにのっけては、雑魚釣り、山菜とり、水浴び、虫取りと、どこへでも、なにをしにでも連れていった。三人だけが知っている“すわりずもう”をはじめたのもこのころだ。柿の実をとる競争をしたときは、腕の力のある佐藤君が日本の腕だけでスイスイをよじのぼり、府たちはあっさりカブトをぬいだ。
どちらかというとひっ込みがちだった佐藤君は自分をいい意味で主張するようになり、自立心も旺盛になった。中学三年のときの東京方面への修学旅行では、先生の心配をよそに、
「ほかの人に絶対めいわくをかけない」
と譲らず、とうとうみんなと同じく楽しい修学旅行に行ってきた。家族の人がついて行くといっていたのを、断固としてことわったという。 佐藤君は思った。
「あの二人はぼくを身体障害者としてあつかったことはいっぺんもない。だからぼくは気持ちの上では身体障害者でない。二人がやるとこをぼくがやれないハズはない。いやどうしてもやってみせる」と―――。
この話を五十嵐君と丸藤君はあとできいた。佐藤君の精神力の強さにびっくりしてしまったという。
そしてこの修学旅行をきっかけに三人は友情の芽ばえを感じとっていた。
高校の進学をめざす三人は受験勉強もいっしょにやり、三人そろって酒田北高に入学した。その直後に、こんなできごとがあった。
同校の階段には手すりがなかった。床から天井までのびた三十センチ間かくの柱が手すりの役割を果たしていたのだ。小、中学校まではおんぶしてのぼり降りをしていただけに佐藤君は大よわり。
学校に手すりをつけてください、とたのんだ。しかし学校ではひとりの生徒のために階段の構造をなおすことはできないという。両親も、費用はいっさい負担するからと申し出たが、学校としては原則を曲げることはできなかった。
話のいきさつを知った五十嵐君と丸藤君はいった。
「のぼれるかどうかやってみようよ」
ふだんとかわらない調子であったが、口はきびしく、目には激励があった。
昼休み。佐藤君は二人にだまって柱にすがり一段あがった。二本目の柱もすぎた。口もとをキッと結び、ひたいに汗が浮かんでいた。
何分ぐらいになっただろうか。十数段の階段はすぐそこで終わりというとき、五十嵐君たちみんなが佐藤君のまわりに集まっていた。
「ガンバレ、ガンバレ!」
のぼりきった。
みんなおどりあがってよろこんだ。女生徒たちは拍手をなんどもくり返した。
「佐藤君、さっきはきびしいこと言ったね」帰り道。ポツンと二人は言った。
「ウウン、ありがとう」
あとは声にならなかった。

四本足の歩みはのろくても

高校三年間の生活はとっても充実していた。
理数系の得意な五十嵐君、スポーツ万能の丸藤君。佐藤君は国語、社会、絵画、詩が大好きと、それぞれの持ち味を生かし、自分にないものを学び、あるものを与えた。
五十嵐君が卓球部にはいったときは佐藤君も入部、一本の松葉づえできびしい練習に耐えた。
丸藤君は野球部のレギュラーだったが、佐藤君を家まで送り届けてから練習に出かけるのだった。また、クラブ活動のあいまをみて珠算塾に通い、卒業式にはそろって三級をとっている。
「人生の道は心で歩く。みなさんは二本足で、わたしは四本足で歩きつづけます。四本足のあゆみは遅い。しかし、みなさんにきっと追いつく。自分の足で歩いて自分をためし、最後までやり通したい。歩くこと、それは目的に向かってひたすら前進する姿です」
これは二年生のときに佐藤君が地区の弁論大会学校代表として参加したときの弁論の一節。成績は惜しくも三位だったが、『あるく』と題した弁論は聴衆に大きな感動を呼んだ。
“心で歩く”その心をささえ、励ましてくれたのは、会場のいちばん前で声援をおくる五十嵐君と丸藤君であった……。
また、中学校を卒業するとき、佐藤君の将来を心配した先生が、
「施設に入らないか。家の人と相談してきなさい」
とすすめてくれたときも、キッパリとことわった。これも五十嵐君と丸藤君の友情が、佐藤君を“できるところまで自力でがんばる”ことを教えてくれたからである。
八年間、この長い歳月の陰には、二人のほか学校でよく世話をしてくれた阿部堅三君(十八歳)などおおぜいの友のバックアップがあった。
こうして、立派に高校を卒業した三人は、こんどは、はじめてそれぞれの道を歩きはじめている。
五十嵐君は栃木県のある工場に、丸藤君は地元の農業協同組合に、佐藤君は山形県農業組合講習所で一年間の勉強と、これからの人生を切りひらいている。
三人の歩んだ道のりは、友情とは何かという問いに対するひとつの答えではないだろうか。そして、三人とも八年間の心の火をたいせつにしながら、歩みつづけることだろう。


掲載誌「高一時代」 旺文社 昭和44年6月号

(文・山形新聞 島竹 俊一)

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