ART STREET‘99


99年、『アート ストリート‘99』開催。
メイン会場は初年度描かれた巨大壁画が印象的な釣具屋さん隣の空き地。
会場モニュメントとして、白いテント状の作品が設置されました。
スタンプラリーが好評で、大勢の人が地図を片手に走り回った初日のスタート。
各店のオーナーも『額縁アート』を出品、各種アート体験教室も開かれたとあって、アットホームで 親しみやすいものになったようです。
小講演会は路上観察学会の林 丈二さん。ユーモラスなスライド上映には笑いが絶えませんでした。
この回の準備から、私は本格的にお手伝いを始めました。魅力ある人たちとの関わりの中で、 ようやく自分を取り戻すヒントを掴めたような気がします。







メイン会場、モニュメントの内部。『南のかまくら』をイメージした、心温まるものでした。



今年も会場近くの街路樹は、フリーペインティングのキャンバスに。子供たちが喜んで筆を走らせていました。



小さい子はそれだけでは飽き足らず、小石や枝にも手を伸ばします。このあたり、すごく重要なことのように思うのです。






所変わって商店街。店主さんたちの作品が光りました。美術/雑貨屋さんのウインドウを埋めるステンシル。2000年問題ですね。



美容室の入り口で。ゴミをゴミとして扱うということ、実は美術界でも画期的なことかも。これも店主さんの仕業。 このあたり、このイベントの醍醐味では?



これも別の美容室のマスターが。ジャズで言う『奇妙な果実』にあらず!年を経る美しさを表現しているそう。なるほど! 何か迫力ありますね。



電気屋さんの店内。これは陶ですね。様々な素材を持てる手業で、という楽しさをいろいろな人が体現しています。






木の状態の変化をテーマにしたインスタレーション。空間を使ったものでは今回最大のもの。



これもインスタレーション。ボンドで固めた布。中空です。




ART STREET‘99をめぐって 〜ある日の新聞記事から〜



 見物客を店内に誘う意識が強すぎるのではないか。JR都城駅前ときわ通りで開催中のアートストリート の展示方法だ。街のあらゆる空間を芸術作品の展示場にし、商店街の活性化を図るのが狙い。
 しかし、店内の展示が多いためか、街路樹に巻かれた白い布に描かれた作品とベニヤアート以外、 目に飛び込んでくるものがない。通りに作品を途切れなく並べるような、歩行者はもちろん車からも 目立つ派手な演出が必要ではないか。
 空き店舗のシャッターやビルの壁も活用、街をもっとアピールしたい。

1999年2月21日 (宮崎日日新聞コラム 『べぶん舌』)





 この文章は、現在のアートストリートをめぐる多大な誤解と、如何ともし難い現状の問題を孕んでいる。
 まず、このイベントは商店街の活性化を最終目的としたものではない。
M.A.Pの『都城を面白くする』『アートで遊ぶ』『生活にアートを』といったコンセプトにときわ通り商店街が 共鳴し、実現成った本企画の根底には大人のアソビ心という、通常(特に商業シーンでは) 真っ先に犠牲になってしまうものがあることを忘れてはならない。


 もちろん、アートストリートでの集客が経済効果を生んでいるのは事実であるし、商いで身を立てる 者の思惑として、それを期待しないはずもないだろう。
しかし、不思議なことに、幾度となく繰り返された商店街との会合の中で、私は損得勘定に関する話題を 一度として聞いたことがない。

 そこがスゴイのだ。

 この人たちは本気で楽しもうとしている。政治やお金に挟まれながら、管理に気を使いながら、ない 時間を割きながら、時に苦情に頭を下げながら、それでもやるのだ。
 大人が自ら遊び場を開拓する大人のアソビ。
そこは誤解して欲しくない。しかし、理解しろと言っても、にわかには信じ難いこともわかる。 それほど稀有なことなのだから。

 誤解の要因の一つとしては、文中にもある野外展示の少なさが挙げられよう。 正直なところ、その年の展示がどんなものになるのかは蓋を開けてみなければわからない。 現実問題として、空き店舗シャッターやビルの壁の活用となると、使用側・許可側双方に相当な 覚悟が要る。スタッフの数もまだまだ足りない。加えて風雨、特にこの地に特有な『霧島おろし』 に耐える作品制作となると、誰もが気軽にとは言えないだろう。
 結果、作品は店内に集中することになる。
『見物客を店内に誘う意識の強さの顕れ』として受け取られるのは残念だが、これが精一杯の現状なのだ。

 無論、このままで良いとは思わない。
もっとこのイベントが世間に広く認知され、もっと大勢の人が面白がってくれるようになれば、より元気な展示が 出来るだろう。個人的には『バカだなあ、こんなこと大々的にやりやがって』などと言いながら 心の中では手を叩いて喜べるような、学生のパワーに期待したい。

 アートごっこ、結構ではないか。触れる以前に現代美術を『前衛』などという侮蔑混じりのカテゴリに 隔離しながら、団体展美術の表層のみを鵜呑みに、ワカッタ顔でそのフォロワーとなる者、 また、現代美術に関わっていると言いつつ『他にはやっている者など居ない』 などとろくに周囲に目を向けず、同じくワカッタ顔で縮こまっている者 (やっている者が居ないのではない。居れば居たでジェラシーと恐れを感じるのだ。)、それよりずっと気持ちが良い。 明快で、活力がある。洗練などされずとも良い。好奇心に満ちていること、それはものづくりの 源泉であり、良い鑑賞者たる最も重要な条件ではないか。世界認識の第一歩とも言えよう。
(私自身はそれほど身軽にはなれそうもないのだが…)

 アートストリートには、『ときわへん』というサブタイトルがついている。つまり、アートストリート =ときわ通りとは限らないのだ。M.A.Pの情熱と、それに賛同する人々が動けばそこがアートストリート なのであり、事実、98年に同市中央通りでも関連イベントが開かれていることがそれを証明している。
 しかし、今のところ、この大人のアソビ心が最大限に発揮され、幸福な形を取り得ているのがときわ 通りである以上、『アートストリート ときわへん』は続いていくだろう。