光野浩一、某日の記憶のかけら。
Apr.30th.2015
やっと、やっと今になって動き出したようだ。
前回の「アートこらむ」をきっかけに、宮崎の美術シーンにキュレーションは存在するのか?という宮崎の特異性に関する問題にようやくメスが入りそうだ。
この流れ自体は大いに評価したい。
作家にとり作品制作とは・作品発表とは、ある意味自らを問題にしたキュレーションとも言えるが、この意識の欠如こそが宮崎で作家が育たない理由だと考えている。
キュレーションが問題にされない環境で作品に触れてきたのなら、そもそもその意義などわかるはずもない。