光野浩一、某日の記憶のかけら。月一回、一日分のみ掲載。




Sep.24th.2011



 




再びの福岡天神。いきなり見慣れないものが出現する愉しさは都城では味わえない


目当ては牛島光太郎&キム・キョンファのコラボワーク。彼のコンセプチュアルで詩的な仕事に惹かれているが、今回上手く行っているかは少々疑問。
近くに座っていたのは御両人だったろうか。作品をよく観てから話し掛けようと思ったが、見失ってしまった。
ARTIUMは「ネオ漫画」横山裕一。付き合うにはかなりの集中力を要するが、印刷物からは窺えない思考のプロセスを追う展示が面白い。


季節柄増えたアートイベント。宮崎でも「アーティスト」を名乗る若手が増えたようだ。

現代美術が一般的に認知されることを望みながら奮闘していた筈なのだが、いざそうなってみるとアートに関わる自覚や覚悟の見えない(そもそもそれらを要しない)若手の発掘ばかりが目立つ。

状況を創ってきた筈の我々は忘れられた世代なのか?


先日、「投げ銭で値段を決める」だの、「勝手に持ち帰って良い」だのという、困った人達がアーティストとしてラジオのインタビューを受けていた。
無論、宮崎にも確固たる考えや実力を持った若手は居るかも知れないが、作った自分でさえ価値が判らないものをアートとして人様に見せる愚挙は謹んでもらいたいものだ。




「全ては芸術だ。その中につまらないものと、そうでないものがあるだけだ。」

学生時代、ベネチア・ビエンナーレ出品作家達の講演を聴いた夜、仲間内で激論を交わす中で飛び出した言葉だ。
あれからアートの裾野は拡がったと悦ぶべきなのだろうか。それが「つまらない芸術」の一般化と同義とならないよう、先ずは自分が「そうでないもの」を目指さなければ。




アートストリートの価値は「一般の人達の胸を張ったアート遊び」にあるわけで、これが自称アーティストのプロごっこだったなら私は応援しなかったでしょう。

勝手に持ち帰る、で思い出した。かつて福岡市美に向かっていた時、擦れ違う人々が皆、大きな紙筒を持っていた。不思議に思いながら展示室に入ってみると、
フェリックス・ゴンザレス・トレスの「勝手に持ち帰って良いポスターの集積」に行き当たって納得した。皆これを観ての帰りだった訳だ。  この場合は拡散のプロセス自体が作品ですね。