亡き父の献眼について
                           宮崎はまゆうライオンズクラブ 
                               三献副委員長  L.藤原 賢治

 体験談の発表の前に「財団法人」宮崎県アイバンク協会、宮崎県アイバンクライオンズ協力会、宮崎医科大学、宮崎中央眼科病院 各位様には、父の献眼の際には大変お世話になりました。この場をお借りいたしまして、改めて厚く御礼申し上げます。
 
 献眼について如何したら良いとか、この方法が最適ですとか、言う説明は私には難しくて出来ません。各々考え方、環境が違いますので、本日私は父を取り巻く私の一日の体験をお話させて頂きたいと思います。

 昨年12月1日日曜日の事は、今でも脳裏から離れず忘れる事の出来ない、今思えば長い長い一日でした。
 当日は宮崎はまゆうライオンズクラブのアクティビティで、みたま園の宮崎県献眼者慰霊碑の清掃に朝8時より参加致しました。

 正月前に廻りがさっぱりと綺麗になり、清々しい気持ちで10時頃帰宅致しました。後で思いますと、これも何か虫の知らせだったのかと鳥肌の立つ思いが致しました。常々、ライオンズクラブの三献事業の一つとして献眼登録運動に参加し、街頭にてパンフレット配布したり、献眼登録申込書を持って奔走したりして今日迄会員の皆様と一緒にアクティビティに参加して参りましたが、実際、目の前に献眼発生が起こりますと言葉では表現しきれない、また違った感情になったのも事実でした。

 話が漠然で理解出来ないと思います。この日の一日を振り返りお話したいと思います。
みたま園の清掃が終わり年末の仕事が溜まっておりましたので私は事務所にて仕事をしていました。父は元社員の人と一つ葉の畑に自転車で行き、帰りには「お墓を綺麗に掃除してきた。」と言っておりました。昼からは車に乗せられて父の妹へ会いに清武に行ったそうです。夜は近くのレストランに食事に行き、帰ってきたのが9時頃でした。「久しぶりに美味しく食べた。風邪も治ったみたいだから久しぶりに風呂に入ろう」とニコニコとひとり言のように言い自宅へ入りました。仕事を10時に終えた私は帰宅し床に付いて暫らくして、11時40分頃でしたでしょうか 母から慌てた声を電話口で父の異変を知り、慌てて行って見ると、大好きな風呂の湯船で気持ちよく寝ているような姿がありました。 時間が経っているのか、笑った顔にも色が無かったようでした。救急隊の方が15分ぐらい人工呼吸をして頂きましたが、無理で帰らぬ人となりました。

 県病院救急センターに運ばれてから、警察からは事情聴取、現場検証などがあり、弟たちと分担して対応し 検視官より異常が見られない事の報告、医師と相談の結果心筋梗塞と死亡病名を言われ12月2日午前12:05分死亡と通達されました。享年83歳でした。仕事一筋に鍛えた体ですので長生きして貰えるものと思っておりました。元気な姿を見てから約1時間で死の姿ですので、信じられない一言しか言葉が出てきませんでした。

 3時間経ったでしょうか。時計を見ると1時30分を指しておりました。ふと我に返った時に献眼が頭の中を横切りました。父も母も献眼登録はしておりましたが、情緒不安な時間でしたので、言葉に気を遣い母に相談しました。何を話したか定かではないのですが、角膜移植で目の不自由な方に光が戻ってくる事、父の肉体の1部が宮崎の何処かで生活している事、色々喋ったのでしょう。

 母の了解を得て、L贄田に寝ているだろうな?気になりつつ、移植の時間も死後5〜6時間と聞いていましたので早速電話を入れました。L福田・L贄田二人は摘出準備連絡を済ませ病院に来て下さいました。摘出手術も無事終え、時計を見ると朝5時を回っておりました。この摘出時間に色々な父の事が走馬燈のように浮かんできました。最後まで一睡もしなく、最後まで身守っていただいた二人には心から感謝申し上げます。

 クラブ関係者、一般の方に隔ての無い行動。この時の二人は「WEサーブの精神」 本当のライオンズマンに見えました。私も素晴らしい人と同じクラブにいて良かったとしみじみ思いました。
 翌日 兄弟、親戚関係者多くの人が集まりお別れを致しました。仕事関係者から父の偉業に感動し、素晴らしい人生でしたね。と言われた時、私もホットいたしました。

 私はこの時思いました。尊い人の大事な体の一部分とはいえ、頂く事は酷な事と思いますが、反対に移植により大事な光を感じ、物が見えると言う感動、移植を待っている人に大きな幸せを掴んで貰いたいと思いました。
今回の体験にて「勇気と愛情で愛の光を捧げたい」

 亡き父を尊敬し感謝申し上げます。

 取り留めの無いお話でした。皆様には御清聴誠に有難うございました。